(とりかへばや 巻二より)
移(うつり)はもともと恋多き男であったが、この頃は格別の恋にひどくその心を悩ませていた。想い通じて子まで成した間(あわい)の君は、そも姦通の許されざる人妻の身分であったから、思うに任せて逢うことも叶わず、その苦しみを紛らさんとして、次に前々から気にかけていた違(たがえ)の君のもとへ忍んだのであるが、その人は移を頑なに拒んで寄せつけず、たおやかに美しい様ばかりを見せつけて、なおのこと焦がれた移は内裏に日参して違の姿を垣間見んとし、また彼女に想いを訴える伝手を方々に求めながら、いずれも報われず、内裏と自邸の他には立ち寄ることもない切々とした日々を過ごしていた。そうしてやがて疲弊し心も渇ききったころ、移はふと、憂(うき)という名の親友の顔を無性に見たい欲求にかられたのである。憂は間の君の夫にして、違の君の異母兄という、双方に縁の深い男であった。
飢えて渇いた旅人が山中の泉に水を求めるような思いで、移は取り立てて人に知らせもせず、これまでも憂に会うときはよくそうしていたように、こっそりと裏から屋敷へ忍び込んだ。憂の部屋は西の対にある。跳ね上げられた蔀(しとみ)の奥に遠目に見えた憂は、暑さに耐えかねたのか装束をひどくくつろげてぼんやりと微風に涼んでいるようだった。
時節にそぐわぬ暑い日であった。昨夜の雨がまだその余韻を残したものか、じっとりとした湿り気が宮中を丸ごと抱き込んで動かず、夏のまま移ろった気配もないような日差しが注いで、虫も鳥も声は朧に遠く、一面揺らめきたつような熱気に満ちていた。
憂は蔀を開け放した部屋に一人くつろいで座り、ゆるゆると団扇を使っていた。当代一の美貌で名高い若者である。気怠げに睫毛を伏せている様子などは、離れて見てもいかにも艶っぽく、まして間近に見れば、みっともないほど装束を乱しているのもさぞ色香の匂い立つ様であろうと思えたが、そっと簀子(すのこ)を伝った移がまださほどにも近寄らないうちに、憂は目ざとく見咎めてさっと身じろいだ。
「どなたか」
「僕だよ。移だ」
誰何に答えて移が半蔀(はじとみ)から顔を見せるのも待たず、憂は客人の目から逃れるように慌てて腰を浮かせていた。
「これは、失礼――はしたない格好をしているから」
「憂」
身を翻して奥の間へ逃げ込もうとする憂を、移は半ば反射で追いかけた。側仕えの女房たちも今は見当たらず、思わず小走りになってしまった年甲斐ない振る舞いも、見るのはこの親しい友人ばかりだと思えば気が咎めることもない。気兼ねするような仲でもあるまいに、いきなり逃げ出すとはあんまりであろうと、追いすがって呼びかける。
「憂、いいよ、そのままで」
「いや……」
「相手は僕なんだ。恥ずかしいこともないだろう」
憂は耳を貸さず、はだけた単衣の合わせをことさらに隠して正すようにしながら奥の間へ逃れたが、移も構わず後について踏み入った。ねえ、と宥めるようにくり返して憂の袖を引く。移とて無作法をわきまえぬわけではないが、こうして無邪気に友情に頼って、心のままの振る舞いを衒いなく見せてしまうあたりが、宮中に憂に次ぐ評判を得ているこの色男のひとつの魅力ではあった。
憂もさすがに観念して苦笑し、実のところ暑くてかなわなくて、と控えめに言い添えて袖を引かれるままその場へ腰を下ろした。移も気楽に胡坐をかき、まだどことなく居心地悪そうにしている友人をねめつけてみせる。
「人の顔を見るなり逃げ出すなんて、ずいぶんじゃないか。しばらく会っていない友人が恋しくなって、わざわざ訪ねて来たっていうのに」
「勘弁してくれ。あんまりな格好だったものだから」
「いや、いや。僕もこの暑さには参っていたんだ。同じようにさせてもらうよ」
言うが早いか移が装束を解いて憂と変わらない格好になってみせると、憂は彼らしいどこか抑えた表情でちらりと笑って、「ならこのままで」とようやく頷いた。
ここではあまりに暑かろうと、結局は二人、先程憂のくつろいでいた廂(ひさし)のほうまで出ていって座り込み、前栽などを眺めるでもなくうち眺め、何ともない四方山話をぽつりぽつりと語り合った。この気の知れた親友としばらく疎遠にしていたことについて、移の方からは何も触れられるわけはなかったが、憂も移に合わせているのか、それとも何か察するところがあるのか、当たり障りのない話題しか差し向けてこない。もし間(あわい)との密通に気付かれているのだとすればとてもこうしてのうのうと笑い合ってはいられないところだが、間に違、二人の女への思うに任せぬ恋心に疲弊した移は、他ならない憂との親しい語り合いには言いようもなく満たされる思いがした。一つきりの団扇を移に使わせている憂は、時折気怠げに息をついては手団扇で顔を扇ぎ、移が風を送ってやるとその度にやんわり辞退しながらも、心地よさそうにくすくすと微かに笑ったりした。日は傾きつつあったが飽かず暑く、そうやって自分たちで起こす他にはほとんど風も吹かなかった。
蒸した大気に籠められ、二人語り合うこの場のみ俗世と隔てられたような心地である。
あまりの暑気にやがて口数も少なくなり、ただぼんやりと隣に座り合いながら、憂のまたゆるゆると手団扇するのに誘われて、移はふと憂の横顔に目をやった。暑さのために滑らかな頬はひどく紅潮しており、ほつれた髪の幾筋かがまとわり乱れるこめかみの辺りを、憂の憂い気についた溜息に従って汗がすうっと滑り降りた。
緩慢に顔を扇ぐなよやかな手つき、体つき、脱ぎ散らして白の単衣と紅の袴ばかりになったどこか女めいた姿の、腰紐に結われてけざやかに見て取れる腰の辺り、日陰にあって白く浮き立つ雪のような肌、鬱々とした吐息の、ひどく熱の籠っている様子などを間近に感じ、移はぼんやりと靄のかかったような胸の内で、震えにも似た情動を得た。このような女性がもしもこの世に居るならば、己はその人にどれほどの愛を注ぎ、どれほどひどく心を惑わせるだろうか。
移の手を離れた団扇が、板敷の上へ音を立てて落ちた。
不意に寄りかかってきた移に、憂は怪訝そうにして移の名を呼んだ。男にしてはやや高く響く、凛と艶めいた心地よい声に目を閉じ、そのまま憂の腰元に抱きつくようにして移はずるずると身を横たえた。
「移、暑いから……」
うるさそうに身じろぐ憂に構わず腕に力を込めると、やがて頭上から諦めたような溜息が聞こえる。衣を脱いでいるためか、いつもほどには香の香りは感じられず、蒸した空気と汗の匂いが移の鼻腔を満たした。男らしい匂いが香の他にはさほど感じられないのも、何となくそれで自然なことのように思えて、憂の声の聞きたさに、寄り臥したまま移はまた世間話などをぽつりぽつりと差し向けて細々と語り合った。
日の傾くに従い、やがて緩やかに風なども吹き始めて、そうするとさすがに秋の気配も色濃く、まだしっとりと蒸すながらに涼やかな宵口の空気が、生絹の衣を透かして肌を冷ました。今は憂も移と同じく横臥の姿勢になり、語りの途絶えた沈黙に二人しばらく涼んでいたが、憂の一度姿勢を変えようと起き上がる気配に、腰元に手を回したままの移はさりげなくそれを押し留めた。
柳眉をかすかにひそめ、憂が移の腕に手を添える。やんわりとした手つきではあったが、憂の己の腕から逃れようとしているのを察し、熱病の癒えかけたときのようなぼんやりと痺れた心地でいた移は、とっさに何か胸を突かれて、抱きすくめるように力を込めた。移、と虚を突かれたように小さく声を上げた憂の顔は、呆れと驚きと訝しむ思いとを、ない交ぜに表している。
「憂、ねえ、そのまま」
甘えるように囁いて憂の肩へ額を寄せた移の胸中には、その時、己をきっぱりと拒んで退けた彼の日の違の姿があった。今この腕の中にいる友人の血を分けた妹、姿形も憂に瓜二つの、愛らしく美しい姫君。息の止まるような胸の痛みに、ますます強く抱きしめた体は、男のものとも思えず細い。違の姫君をもしかき抱いたとすればこんな具合だろうかと、そして今一人愛しい人、憂の妻たる間の君も、こうしてこの男と夜毎に抱き合ったものかと、思ってしまえばなおたまらず、狂おしい恋情が頭をもたげて、にわかに喉元までせり上がった。
「違の君は、今頃どうしているのだろうか」
思わず涙ぐんだ移に目を瞠っていた憂は、移が零すように呟くと、特に相槌も打たず口を閉ざして、どこか身構えるような素振りでそっと体の力を抜いた。彼がこの話題をあまり好まない様子なのは感じられたが、もともと色恋については興醒めなほど関心のない男であったし、ともかくも今は逃げるでもなく移に身を任せて、耳を傾けているようではある。何より一度堰を切ったこの恋情、恨み、苦しみはそのまま留められそうにもなく、移は思うに任せて悩ましい心の内を吐露した。彼女が己の目にいかに美しく、いかに激しく心を惑わせる姫君であるか、彼女に恋い焦がれた短くない年月、日々どのように会えぬ彼女を想い、苦しんだか。思い余って違の部屋へ忍んだことについては、さすがに話さずにおいたが、己のこれだけ激しい想いを違がつれなくも拒んだという旨は匂わせて、涙ながらに恨み言を言った。
「どうにかして彼女にこの想いを分かってほしいが、手紙のひとつ差し上げる伝手もないんだ。遠目に姿を垣間見ることだって、なかなか叶うものじゃない。ねえ、憂、僕はひどく苦しいよ。実のところこの何年も、僕は彼女への恋に焼かれている。いつかこの恋が報われるものなら、地獄の業火にだって喜んでこの身を投じるけれども、このまま想いが届かずに絶えてしまうのだとしたら、その時僕は生きていられる気がしない。この恋が潰える時が、僕の息の絶える時だ。ねえ……違は君の妹君だ。何とか、取り持ってはくれないか。どうか。人の命など露のようにはかないものではあるけれど、その一滴の、ほんの一呼吸に、もしも情けをかけてくれるのなら」
袖口で目元を押さえ、移はすぐ傍の憂の顔に目をやった。移の訴える間、特に応えるでもなく、かといって聞き流すでもなくじっと天井を見上げていた友人は、今も視線を動かさないまま、何かを耐えるような顔つきで口を閉ざしていた。すでに日は暮れて久しく、女房たちは来客に気付いて身を控えているのか、明かりを持って来る者もなく、月明りばかりの中で憂のかすかに柳眉をひそめた様は、やはり匂いやかに美しかった。
ねえ、と移が繰り返して囁きかけようとしたとき、憂が遮るように艶やかな唇を解いた。
ひとつにもあらじなさてもくらぶるに逢ひての恋と逢はぬ嘆きを
素晴らしく響きのよい声で口ずさむように詠じた憂の、不意に表情を崩して皮肉気に笑んだその顔つき、言い紛らわすような口ぶりも、常に凛としてどこか人を隔てるような気配のあるいつもの彼らしくなく、手つかずの内面を零して、それは思わず目を奪われるほどに魅力の溢れる様であった。
一つきりの恋ではあるまいと移を揶揄した歌の、逢はぬ嘆きが違への恋を指すなら、逢ひての恋とは間との仲のことであろう。それではこの友人は、移が己の妻と密かに通じていたことを知っているのだと、その気付きはひどく極まりが悪くつらいものではあったが、今このすぐ傍に寄り添ってしどけなく打ち解け、零れるような魅力を放っている人を目の前にしては、浮世のあらゆる気がかりもそれで救われてしまうような心地がして、移はその想いを訴える言葉を探しながら、憂の体を引き寄せて強くかき抱いた。
くらぶるにいづれもみなぞ忘れぬる君に見馴るるほどの心は
結句まで聞き届けもせず、憂は移の腕から逃れようと身をよじった。逃すまいとますます力を込めれば、らしくもなく苛立ちをあらわに鋭い溜息をつく。
「しっかりしてくれ。そんな言葉はまるで頼りにならない。君は違と間、身を焦がすほどに恋してやまないという二人の影を、縁ある私の中に見ているんだろう。馬鹿げた話だ、移。少し頭を冷やせ」
「憂――」
起き上がろうとする憂をなおも留めれば、憂はまた一つ溜息をつき、間近の移と目を合わせた。わずかに射しこむ月明りの中、憂の優美な顔つきは自ずから光を放つようで、そのまろやかな輪郭が移の目についた。苛立ちの中に、子供をあやすような柔らかな気配をふと滲ませた、その眼差しに息を止める。
「移、真面目な話、実のところ父から仰せがあって、伺わなければならないところを、あまりに暑くて休んでいたんだ。いい加減に参上しなければ不審にお思いだろう。先に伺ってくるから」
身を起こした憂を、移はふと捉えて、またそこへ押し倒した。目を見開いた憂は、乗りかかってくる移を唖然と見上げ、刹那に吹き抜けた秋の夜風のせいかどうか、かすかに身を震わせた。
「移、一体。気でも触れたか――」
「憂」
月影のように白い首筋に唇を寄せる。肩を跳ねさせ、抗う力はやはり男のものではありえなかった。
嗚呼、まさか、このようなことがあるものか。
信じがたく思う心はありながらも、深く考える余裕もあらばこそ、夢中になって目の前の細い体をかき抱き、女のひどく取り乱して涙を流す様も、切なく美しく、沁みわたるほどに愛しいものに思えて、腕の中に取り籠めながら、移は今全ての恋心を報われたような、深く安らかな満足を味わった。あるいはこれまで移を苦しめた間との交わりも違への恋慕も、天が己をこの夜へ導かんための、しかるべき縁であったか。月明りの中身を寄せた女の、とめどなく涙を零すのが比べるものもないほど美しく、陶酔にも似た、夢のように満ち足りた心地の中で、移は自身も落涙しながら、まだ息を乱す女の体を抱き寄せ、嗚呼、どうしようかと、吐息交じりにそっと耳元へ吹き籠めた。
「僕はもう、一時だって君を手放せそうにないよ、憂姫」