ドロップ・バイ・ドロップ

「あ、瀬川」
「おはよう」
「おはようじゃないだろ。お前も今日四限だけ?」
「いや、二限と四限」
「二限なんてどうせ出てないんだろ」
 階段の途中で出会った瀬川とこそこそ会話を交わしながら、義宏は教室後方のドアをそっと開けた。スライドが映されている薄暗い大教室は、遅刻者としては多少気が軽い。身を屈めるようにして席の空いている長机に滑り込むと、端に座っていた顔見知りの女子生徒が荷物置きにしていた椅子を空けてくれた。
 最前列に置かれていたレジュメは瀬川が二人分取ってきた。遅刻に関して義宏よりも頓着のないらしい瀬川の振る舞いは、少しも遠慮が感じられないにもかかわらず、不思議と空気を刺激しない。当然のように前へ出てレジュメを取りまたすうっと戻ってきた瀬川は、荷物を詰めてもらった分空いた義宏の隣の席に腰掛けた。
 授業の後、義宏は隣の女子に声をかけた。友人を挟んで一・二度話したことがあるきりなので「かなちゃん」という以外に呼びかけ方が分からなかったが、小柄で愛想のいい女子生徒は頓着なく応じてくれた。
「ノート? いいよ、いいよ。私レジュメに書き込んじゃってるけど、これでもいい?」
「ありがとう。これ返すの、えっと、明日……は同じ授業取ってないか」
「ごめん、俺も借りていい?」
 横から瀬川が図々しくもさりげなく割り込んで、返却は来週にと話が決まった。借りたレジュメを仕舞い込む義宏の前を横切る形で軽く握られた瀬川の手が伸びる。
「これどうぞ」
「え、なに?」
 紫色の包装紙で包まれた安っぽい飴玉を受け取って、かなちゃんの顔がぱっと輝いた。それを間近で見た義宏は思わず笑ったが、本人は気づいた様子もない。
「もらっていいの」
「お礼に」
「ほんとに。ねえ、これ、今食べてもいいんだよね」
 どうぞ、と瀬川が微笑む。元々が線の優しいつくりの顔であるだけに笑顔になるとやたら紳士的に見えたが、そもそも瀬川は常に何の理由もなく笑みをたたえているような男で、この時も特に意図はなかっただろう。第一この男は紳士というよりただの変人であることを義宏は知っている。
「かなちゃん、甘いもの好き?」
 あまりに幸せそうに飴玉を転がすので尋ねてみると、首の可動域いっぱいで頷かれた。
「大好き」
「そんなに」
「だって、甘いものを食べてるときほど幸せな時間ってないよ。そう思わない?」
 生返事で頷いてから瀬川を振り向いてみる。瀬川は予想したとおり、いつもの正体の知れない笑顔で小首を傾げただけだった。
 食べ終わるまで残ろうかな、と上機嫌に呟いたかなちゃんには五限の授業はないらしい。同じく後は帰るのみの義宏と瀬川もなんとなく席を立たずにいた。他の生徒はもう全員居なくなっている。瀬川はあまり自分から口を開かないので、勢い義宏が話題を探さなければならなくなったものの、幸いかなちゃんの口の滑りは良く大した苦労にはならなかった。
「じゃあかなちゃんは、好きなもの百個言えって言われたら、お菓子の名前を言う?」
「好きなもの? えっとね、クッキーでしょ、チョコレートでしょ、アイスクリームでしょ。大福、ようかん、ジェラート、マシュマロ、あんみつ、プリン、わらびもち、ケーキならショートケーキにパウンドケーキに」
「あーいや、うん……」
「キャンディも好きだよ。口の中に入れたらわっと甘味が広がって、舐めたらまた甘さがいつまでも溶けてくるし。でも溶けるのに、アイスクリームみたいにすぐ消えちゃうんじゃないもんね。たっぷり時間使って楽しめるし、口の中で転がしたら歯に当たって音がしたりするでしょ。この音とか感触と、溶けてくる甘さのハーモニーなんて、真剣に考察したらレポート一本書けちゃうよ。案外一筋縄じゃいかないんだよね」
 かなちゃんは飴玉を噛まずに楽しむ主義なのか、ややサイズの大きなそれを口の中に入れたまま手振りも交えて喋っている。飴玉で頬を膨らませているのも一生懸命な語りも可愛らしくはあったが、この子も変わり者だな、と義宏は曖昧な笑顔で見守った。どうも自分の周りには変わり者が多いようだと義宏は思う。類は友を呼ぶという格言をいまさら否定するつもりはない。
「このシリーズのキャンディ、おいしいよね。私これのレモン味が好きなんだ」
「――味?」
 それまで大人しかった瀬川が急に言葉を発した。何、と義宏が訊いてみてもちょっと首を傾げるだけで黙って目を瞬かせている。
「ね、あなたは何味が好き?」
 かなちゃんの問いにも答えず、あじ、とまた繰り返しながら瀬川は自分の鞄を探り始めた。仕方なく義宏が間をつなぐ。
「何味があるの」
「ええとね、これがグレープでしょ。あとレモンと、イチゴと……あっそれ」
 瀬川が飴玉の詰まった袋を取り出して、いかにも女性向けのポップな印字を読み取ろうとするように顔の前へ持ち上げた。袋の中には四種類ほどが色とりどりに入っているようである。
「お前、袋で持ち歩いてるのかよ」
「うん。……うーん、どうぞ」
 瀬川が首を傾げて袋ごとかなちゃんに差し出す。まだ飴玉を転がしているかなちゃんが同じ方向に首を傾けた。
「もう一つ? いいの?」
「レモン味。どれかよく分からないから、取って」
「分からないって、黄色いやつなんじゃないのか」
「小野これ知ってるの」
「いや知らないけどさ……」
「ほんとにいいの? ありがとう! じゃ、遠慮なく」
 かなちゃんが喜色満面で黄色い包みをつまんだ。瀬川ばかりが礼をするのでは格好がつかないし、自分もあとでお礼のお菓子を買っておこうと内心で義宏は決めた。とりあえず甘いものならなんでも良さそうである。そういえばと義宏は首を傾げた。
「瀬川も甘いもの好きなの。何か、あんまりそういうイメージはないけどな」
「俺? いや、べつに」
「何だそれ。飴玉袋買いしてんのに」
「いつも買ってるの? このアメおいしいよね」
「さあ……。食べたことない」
「ええっ」
 義宏が何か言う前にかなちゃんが大きな声を上げて驚愕した。
「信じられない! そんなの非常識だよ。絶対人生損してるよ」
「そうかな」
「絶対! もうね、人生の七割くらいの損」
 義宏は思わずかなちゃんの表情を確かめたが、あながち冗談を言っている様子でもなかったので、自分で食べないものをどうして買ったのかという自分の疑問はひとまず飲み込んでおいた。瀬川は思案顔、なのかどうか今一つわからない表情で飴玉の袋をためつすがめつしている。
「食べてみれば」
「小野もいる?」
「じゃあ、いる」
 差し出された袋から、せっかくなので黄色い包みを選んだ。瀬川は適当に掴み出したようだが同じく黄色い包みで、二人で同じ飴玉を口に含んだ。
「どう?」
 かなちゃんが身を乗り出す。レモン味の飴玉はほとんどハチミツレモンの味がした。酸味はあるが予想を上回って甘い。
 かなちゃんの熱のこもった視線に無言でいるわけにもいかず、大きな飴玉で喋りにくかったが「けっこう甘いな」と瀬川に向かって話しかけてみた。
「ファーストキスの味だ」
「うお。お前ってそういうこと言うんだ」
「小野ってキスしたことなさそう」
「殴るぞ」
「ね、おいしいでしょ」
「うん」
 答えたのは義宏で、かなちゃんが主に返事を求めていただろう瀬川はさっきから白板の方を向いたまま何とも言えない真顔で飴玉を転がしていた。笑みがないので真顔であることは分かる。かなちゃんはその様子をどう見たのかそのまま口を閉じ、義宏も飴玉がかさばっていたので少しの間黙々と甘酸っぱい味を転がした。
「…………」
 そうして唐突に、がりんと硬い音が鳴った。
「あっ」
 がりがりがり。やや非難のこもったかなちゃんの声を気にもとめず、瀬川は真顔のまま黙々と飴玉を噛み砕いた。素早く荒っぽい調子でさっさと飴玉を飲み込み、変わらず宙を見つめたまま、はたはたと目を瞬かせている。思わず一部始終を見守っていた義宏は口を開こうとして飴玉の存在を思い出し、とりあえず半分に噛み砕いた。
「……噛んで食べる派?」
「もったいない。もっと味わって食べなきゃ」
 かなちゃんの強い声は心底無念そうである。「うん」と義宏たちを振り向いた瀬川は笑顔だった。どことなく楽しそうに見えるが何故かは分からない。
「もったいなかった」
「何やってんだよ」
 不意にくぐもったバイブ音が鳴った。三人とも思わず自分の携帯を確かめたが、音は瀬川の鞄から聞こえていた。
「俺、帰るね」
 メールを一瞥した瀬川が言って席を立つ。なら俺も、と義宏も慌てて立ち上がった。かなちゃんは本当に飴玉を舐めきるまで残るつもりらしかった。
「じゃあ、レジュメ来週返すな。ほんと助かった」
「ううん、アメありがとう」
「どういたしまして。お疲れさま」
 忙しい別れ際を義宏は内心申し訳なく思ったが、かなちゃんは気にしていないらしかった。心底幸せそうな笑顔と手を振り合い、さくさくと歩いていく瀬川を追って廊下を歩くと、階段の前で瀬川はぴたりと足を止めた。
「小野、先行って」
「は?」
「俺タイミングずらして後から行きたいから」
「何だそれ」
「ロビーのとこで人が待ってる」
「あ、待ち合わせ?」
 最寄り駅まで一緒に帰るつもりでいた義宏はちょっと虚を突かれた形で眉を上げた。別に普段から一緒に下校するほどの仲でもないので構わないのだが、それにしてもたかが待ち合わせに連れが居合わせては邪魔だというのは意味深である。
「女の人か」
「うん」
「彼女?」
「いや、まだ違う」
「何だそれ。何か腹立つな」
 義宏は笑って、分かったよと手を振った。お疲れと手を振り返す瀬川の笑顔に邪気がないのも受け取りようによっては皮肉である。踵を返しながら義宏はコノヤロウと苦笑った。
 ロビーでは女子生徒が一人壁にもたれて立っていた。階段を下りた義宏と目が合い、知らない顔だと気づいたらしいが律儀に控え目な目礼をした。会釈を返しながら、義宏は思わずその女子生徒に親しく声をかけてみたいような気がした。瀬川に目を付けられたのなら、なかなか一筋縄では済まないだろう。自動ドアをくぐりながら、何となくこみ上げた笑みとも苦笑ともつかないものをこらえるために口の中に残っていた飴玉を噛みつぶす。硬い歯ごたえとともに酸味のある底なしの甘さが口いっぱいに溶け出した。

   *

「明日授業で会えるときで良かったのに」
「早く済ませたいし、瀬川くんが残ってるならと思って」
 差し出されたコピーを受け取った瀬川は、ありがとうと笑って、鞄から飴玉を袋ごと引っ張りだした。
「どうぞ」
「え?」
 肩を滑る髪を押さえながら真央依(まおい)は戸惑ったように少し眉を寄せた。差し出された袋を見、瀬川を見る。瀬川は軽く首を傾げてみせた。
「味。好きなの選んで」
「どうしたの、急に」
「どれが好き?」
 真央依は袋の口から見える色とりどりの飴玉に目をさまよわせて、困惑したように言った。
「どれでもいい……」
「好きなのない?」
「味、よく覚えてないもの」
「じゃあ高木さん、手出して」
 別にいいのに、と呟いた真央依の声には聞こえないふりをして、瀬川は自分で適当につまみ出した飴玉を真央依の手に乗せた。真央依は手の中の赤い色を見下ろしてふっと黙り込んだ。十センチほど身長差がある真央依が顔を伏せると瀬川からは表情をうかがえない。少しの間黙って待っていたが真央依が動かないので瀬川は言葉を継いだ。
「今日はそれ。全部試したらまた好きなやつ訊くから、味覚えておいて」
 真央依は何か言いたげな顔をして瀬川を見上げたが、瀬川は構わず笑ってみせた。
「食べないの」
 真央依はまたちょっと眉を寄せてから、呆れたような諦めたような表情をにじませて、飴玉を口に含んだ。大きな飴玉をいつものように噛み砕く瞬間、ほんの僅かな逡巡をしっかりと見届けて、瀬川は上機嫌に次もよろしくと笑いかけた。

『ドロップ』は部員の皆に楽しんでもらえた幸せな作品になりました。
関連作品として色々書いてもらったので、原作者として感謝をこめて書かせてもらったのがこのお話です。
正直瀬川の人物像もぼんやりしてましたし、続編なんてとても書けるわけないと思ってたんですが
皆の作品に刺激を受けてこんな形になりました。
瀬川だけでなく義宏もかなちゃんも自分や部員のキャラで、原作者ながら二次創作のノリで
すごく楽しかった。

2013.4.12