春先の空はごく浅い青色をしている

「遊びに行こう」
 日曜の昼。インターホンの向こうで、智美は返答まで少し間を置いた。
「……どこに?」
「決めてない」
「何しに」
「決めてない」
「外に行くの」
「うん」
 また少し間が空いて、すぐ出る、と智美は答えた。
 少し前に中学を卒業した。受験は終わったばかりだ。数えてみてあきれたことには半年を費やしていた。解放されたのはまったく嬉しいが、思いの外感慨は薄い。淡々としているというよりは、むしろこの場合、ぼんやりとしているというほうがたぶん正しかった。起きて食べて寝て数日をすごした。智美に会いに来たのは何となく思い立ったからだ。よく晴れていた。どうせなら外にいるほうがいい。
 息を吐いて空を見上げると、白く月が浮いていた。輪郭の薄ぼけたそれを眺めてあくびが出そうになる。真里、と呼ばれてふり返ると、スニーカーをつっかけながら智美が出てきた。
「真里、これ」
 智美は文庫本を二冊手に持っていた。つややかな表紙が太陽をはじいて目を細める。
「読書するの」
「うん」
「じゃ、グリーンコーポだ。公園。ベンチがある」
 行こ、と智美の手を引く。遊びに行こうと言われて読書を希望するあたり、智美も何やら気が抜けている。どうせそんなことだと思っていたから、私は手ぶらだった。面倒なので携帯も置いてきた。日差しはじっとりと熱を含んでいて、微風がひやりと冷たい。住宅街に出歩く人はあまり見当たらず、太陽にさらされたアスファルトが、くたびれた灰色をしていた。
 あくびをかみ殺して灰色をたどる。
 坂の下に、クリーム色をしたアパートがつくねんと建っている。名前ほどには緑はない。ただ公園はある。ごく小規模な滑り台とブランコとベンチがあって、それで敷地が埋まってしまうような代物だ。アパートの入居状況は知らないが、公園はたいてい無人だった。受験勉強が始まるまでは、二人でたまに通っていた。歩き慣れた道だ。
 智美のロングヘアーが風で舞い上がり、面倒くさげな手つきで右肩に流された。温い空気と冷えた空気が交互に肌を舐めていく。小さい歩幅で黙々と坂を下る。
 公園には案の定、人がおらず、二人でフェンスをよじのぼった。入口はぐるりと回った反対側にあり、正面から入るなんて面倒なことはしない。
「けっこう久しぶり……のせいじゃあないね、違和感があるのは」
 フェンスの上で動きを止めて中を見回した。「色が全然違う」
 ペンキが塗り替えられていた。知らなかった。滑り台もブランコもベンチも、おもちゃのような原色にあざやかに様変わりしている。フェンスに腰かけるようにして一息つき、二人で飛び降りる。
 こっち真里の分、と私に本を手渡し、智美はベンチに向かう。後に続きながら、本を表裏にひっくり返した。薄くて真新しい文庫本は、たぶん智美でなくおばさんが買ったものだ。尾崎放哉句集、と書いてある。背もたれのないベンチは遠慮もなく真っ赤になっていて、目をしばたたかせながらそこへ腰を下ろした。
「うわ……改めて何だけど、すごくおかしいよ、これ」
 両目の間をもみほぐす。隣で智美が同調する。
「ずいぶん変わったね……」
「タイムパラドックス?」
「たぶん全然違う」
 見える建物の配置も、アパートの外壁も変わっていないが、視界の違和感は尋常でなかった。ブランクは約半年、大した変化もない私たちを内側にふくんで、公園はずいぶんと見慣れない様になっている。私と智美は、しばらく唖然と色鮮やかな風景をながめてから、手の中の本を開いた。
 智美は血なまぐさい推理サスペンスを持ってきている。春のうららかな空気はそぐわないが、こういうマイペースさはきっと見習うべきだと思った。
 たまに強めの風が吹いてページがあおられる。
 句集というものに手をつけたことはないが、興味がないわけでもないから素直に読んだ。俳句を読むというのは主観的に春らしかった。原色の公園には似合わなかった。智美はたぶん目についた本を持ってきただけで、他意はない。黙々と読んだ。いい本だった。
「受験、終わったねえ」
 口がひまになってつぶやいた。聞いているのかいないのか、智美は目を動かしながら軽くうなずく。
「卒業したしね」
「うん」
「もう高校生なんだね」
「うん」
「いいのかなぁ。いい加減だなぁ。よく分かんないね」
 ちゅん、と鳥がさえずった。
 ページを繰る。黙々と読みふける。少し寒い。いい本だ。ぼんやりと眠くなって思考がゆるむ。いい本だがなにせ句集なので短く、しかも後半は俳句でなく雑記と解説だった。長い文章は今の気分に合わないので読まない。一時間足らずで読み終えたときには姿勢がつらくなっていて、私はもぞもぞと座りなおした。
 智美がひょいと顔を上げる。
「もう読み終わったの?」
「読んでていいよ、智美」
「そう?」
 智美の頭が下がる。私ももう一度読もうかなとあくびをした。ぱん、ぱんと音がして見上げる。
 三階のおばさんが布団を干していて、空は春めいて晴れていた。顔を上げると、うつむきっぱなしだった首が気持ちいい。見上げたまましばらくぼんやりとした。
 いつの間にこんなに日差しが温くなったかな、と思った。否応なしに時は進んでいる。勝手に大きくなっていく服に体を合わせていくような、そぐわない違和感がとろりと全身に回る。眠い目をめぐらせると、薄ぼけた輪郭が頭上に浮いていた。
 智美が隣でページをめくった。二・三度まばたきをして、あくびをかみころし、私はゆっくり本に目を戻す。

    うそをついたやうな昼の月がある

 きっとそのうちに溶けて消えるだろう、と呆(ほう)けた頭で思った。


(『うそをついたやうな昼の月がある』 尾崎放哉)    


2009年の春、高校二年生、部誌掲載作品。
既存の短歌や俳句をもとに小説を書くという企画で、尾崎放哉さんから拝借しました。
古い没ネタをもとに締切ギリギリで書いた記憶から、なんだかろくでもなくてあまり読み返してなかった。
テーマがすっきり前面に出てるのは良いのですが。
同じ言葉で違う漢字変換をしているあたり、いい加減な仕上がりです。
グリーンコーポの印象が強すぎると複数人から言われた思い出とか(笑)

2011.11.8