1
講義が始まって二十五分、義宏は最後列に座っていた稚晴(ちはる)の隣にすべり込んだ。
「また、気合い入ってるな」
裏返されたレジュメには、相も変わらぬ細密さで、立派に枝を張った大樹が画面いっぱいに描かれつつあった。集中しきった様子の稚晴は手を動かしながら首を傾けたが、義宏に応えたというよりは、単に姿勢を変えたかっただけであるらしい。
「レジュメどこ」
稚晴が目も上げないまま、シャーペンの頭で左奥を指す。
しゃりしゃり、稚晴のペンの動きを聞きながら、義宏はせいぜい真面目に講義を聞いた。漢字を書き損じ、消して、その手でまた書き損じる。義宏が眉間をもんだとき、稚晴が不意に手を止めて顔を上げた。板書を見ているようでいて、おそらく見ていない。陰影深く描きあげられた大樹は葉が省略されて裸木だったが、木肌の艶はやはり夏だ。
(じんじゃの木?)
レジュメの隅に書きつけて押しやると、稚晴はゆるい瞬きをしてから微かに笑んだ。
(ねむそう)
義宏が続けて書いた下に、稚晴が手を伸ばして短く書き足す。
(ねむい)
(ねちゃえば)
時計を確認した稚晴は、下ろしていた髪をヘアクリップでまとめ上げ、義宏に指を三本示してから机の上に突っ伏した。かろうじて体は起こしている義宏も瞼がずいぶん重い。窓の外で昼前の太陽は白く、一面の色が褪せ、葉が照り返して、デ・キリコさながらの陰と日向がくっきりと線を引いていた。
きっかり三十分で、義宏は稚晴を揺り起こした。講義終了までもういくらもないのだが、本人が三十分で起こせと言うのだから、起こしていいのだろう。のそのそと腕枕から起き上がった稚晴は、とろりとした目つきのまま、もはや手を加える余地もなさそうなレジュメ裏の大作に、荒い手つきで何かを黙々と描き足した。
チャイムとともに教授が出ていき、前の方にひとかたまりで座っていた女子が稚晴を呼んだ。
「一緒に学食行くー?」
行く、と片手をかかげつつ、稚晴はなおもシャーペンを走らせている。何を描いてるんだよ、と義宏がのぞき込むよりは早く、稚晴がレジュメをつまみ上げて義宏に突きつけた。猿が一匹奇妙なポーズで木の枝から落下しかかっている。横には猿も木から落ちると書き添えてあり、右上に「さ」の字をまるで囲ってあるので、見事な大作も他愛のないかるた仕立ての落書きになっていた。猿の顔はよくよく見るまでもなく、腹立たしいほど特徴を捉えた義宏の顔だ。それを地上から指差して笑っているのは稚晴と思しき少女で、はたいてやろうと伸ばした義宏の手から逃れた現実の稚晴も声を立てて笑い、それからするりと席を立って、友人たちの輪へ駆けていった。ゆるく起きた風が空調の冷気を押して寒く、義宏も自分を呼ぶ声に応えて、冷えすぎた講義室を出た。
2
「座ってる鳩」
義宏の足下にうずくまっていた鳩が、もぞもぞと立ち上がり、ベンチの下までもぐりこんだ。鳩が座るのだと義宏が知ったのは、おそらくこの境内だっただろう。その頃稚晴とどんな会話をしていたのか、考えてみれば、そうした記憶は不思議と薄い。
「熟れたさくらんぼの感触。――コットンをこう、半分に割ったときの、ふわふわっとした手触り。――ゴムボールを蹴ったときの音」
数え上げるたびに指を折って、それを広げてかき氷を口へ運び、また指を折ろうとした稚晴が首をかしげた。
「今、いくつ?」
「さあ……」
あくびをもらす。
すでに何度か数を見失っているから、稚晴が自身でかかげた百個という目標も、あるいは達成しているのかもしれなかった。世にある「好きなもの」をえんえんと数え上げていた稚晴は、しばらく指を曲げたり伸ばしたりしながら首をひねった後、やがて興が醒めたのか、黙々とかき氷を片付け始めた。義宏の紙コップはとうに空になっていた。
西の方では強烈な夕焼けが横なぎに街を焼いていた。高台に座る義宏の背中もついでに焼かれて、陽射しに吹き飛ばされた黒い影が、引きちぎれそうに前へ伸びている。義宏は背もたれのないベンチに浅く座りなおした。足を前に投げ出し、顎をつき出すと、目の前の大木を見上げることになる。生い茂った緑の深さが、夕日を受けて複雑な色をはらんでいた。
「あれも好き」
あらかた融けている氷を口に運ぶ合間に、稚晴がストローの柄で正面を指した。義宏は瞬きひとつの間のあと稚晴へ顔を向け、ストローの先を忠実にたどった。月が出ている。存外暗い東側で、満月には少し足りない。
「赤いのもいいけど、私は銀色のやつが好きよ」
「落ちるなよ」
「なにが」
「だから、落ちただろ。昔」
ちょうどこんな空具合だった。枝の上に腰かけていた幼い稚晴が、ふと月の方へ身を乗り出して、そのまま滑落してしまったのだ。地上から見ていたのは義宏の方だった。稚晴には結局大した怪我もなく、今となれば笑い話だが、むろんその時の義宏にしてみれば笑うどころの話ではない。落ちた本人以上に義宏が大泣きしたというのが、後に至っては語り草になっている。ああと呟いた稚晴が、一瞬口をつぐみ、紙コップに残った水をかき回した。
「――一世一代の号泣」
「釈明するのも飽きたけどな、あれは、俺じゃなくたって泣く。絶対に死んだと思った」
目の前の大木に指を向け、稚晴が座っていた枝と地面との落差を示してから、それはどうでもいいと義宏は首をふった。
「あの時、なんで落ちたの」
あっと思う間もなく枝を離れた少女の姿を、今でもよく覚えている。
「子供だもん。ぼうっとしてたら落ちるくらい、あるでしょ」
「そういうことじゃなくて……。あれは、月を見てたのか? そう見えたけど。触りに行こうとして、うっかり落ちたって風に」
稚晴を見やる。稚晴が音を立てて残った水を吸い上げる。
「違うのか」
「どうかな。違うとは言わないけど」
「けど、何……」
稚晴は前を向いたまま、はたはたと瞬き、首をすくめた。「ああいう気分のときって、あるでしょ」
「ないだろ」
否定してから、どんな気分、と訊く。稚晴はくわえたストローを上下に揺らしてしばらく遊んでいたが、やがてストローを吐き出し、義宏が脇へ置いていた紙コップに自分の紙コップを重ねた。
「向こう側に行けるかもしれない、と思う気分」
義宏はその言葉をそのまま頭の中で復唱した。
「……向こう側って?」
「分かるでしょう、そういうの」
「分からないよ」
「どうして。知ってるはずよ。忘れたんだ」
「向こうって、何の向こう」
「そういう話じゃない」
はっきりと首をふる稚晴の表情は、苛立ちよりも不審に近い。義宏は稚晴から視線を外した。
「なら、異世界ってこと」
「……表現の仕方は色々ある。あんまり簡単じゃない」
稚晴はそこで一度口をつぐみ、言葉を考える様子だった。木がわずかに揺れる。新緑が朱色をはらむ。濃紺を背にして、溶けて濁った茜色の葉の重なり。危うく白を囲い込んだ月の輪郭線。稚晴がかすかに息をもらす。
「……今、何を見てる?」
義宏は答えに迷った末に、漠然と目の前を指差してみせたが、稚晴はそれを見もしなかった。
「どう感じる?」
「……別に。お前は、何か感じるんだ」
「ううん。別に」
「なんだよ」
「通じ合えてしまうときと、できないときがある。タイミングと巡り会わせがあるの。何事にも」
分かるでしょ、とくり返す。義宏はしばらく沈黙してから、分からないと答えた。「強情っぱり」稚晴は一言で断じてまた首をすくめた。
「ひとつ訊いておきたいんだけど」
「なに」
「向こう側に行きたいのか?」
鳩がベンチの下から這い出して、義宏の足下を離れた。大木の影に寄り集まる仲間のところまでほとほとと歩いていくのを、二人で黙って目で追った。
「あと百個、数えてみようか?」
「だよな。分かった。数えなくていい」
3
眠りがひどく浅かった。それまでアラームなしには起きたことがないような時間に、義宏は目を覚ました。
部屋の窓に何かが当たって、音を立てているらしい。浅緑のカーテンを引くと、人の気配のない住宅街が、白み始めた薄闇の中に沈み込んでいる。窓ガラスに小石が当たり、義宏は窓を開けた。
稚晴が立っている。冷房の切れた部屋よりも涼しい風が、義宏の首筋をなぞって流れ込んだ。密室の沈黙とは違う類の静寂の中に稚晴が立っていて、見下ろした義宏に向けて、頭上を指差した。
まだ星が出ていた。東から白んでいた。なめらかに溶け合い、輪郭を融かして、深く移りゆく。ゆるやかに寄せた風が引いては揺らぎ、群青の深みへ吸い込まれていくのを見た。義宏はただじっと見上げた。
かなり長い時間見上げていた。
やがて見下ろすと稚晴の姿はなく、義宏は深い瞬きをして、もう一度空へ視線を投げた。夜が明けていく。義宏はかすかに笑い、部屋の中へ足を向けながら、朝日を透す小さな窓を、後ろ手で一息に閉め切った。
2012年春、大学の部誌に掲載。
以前からここに置いていた話ですが、多少修正を加えて部誌のほうへ。
やっぱり紙媒体になると、なんとなく嬉しい気分です。紙はいいなあ。
ということで改めてつくづく読み返しましたが、相変わらずラストがうまくないです。
そして、ひとつ思ったこと。心情描写を省くと「それっぽさ」が出る!(←)
そんなもの出たところで、どうだという話はアレですけれども。
修正前はこちら
2012.4.21