ひとつの喩えと可能性

 街が流れていく。家とスーパーマーケットと街灯が煌々と飛んでいく。僕は走っている。街がどんどん流れていく。
 ずいぶん走った、と僕は思った。走り通しだ。一人でずっと走り通しだ。真っ白なガードレールが飛んでいく。眩しい窓が飛んでいく。もうずっと、えんえん、こんな景色を見ている。
 どれくらい来たんだろう、と初めて思った。ずいぶん走っている気がするから、ずいぶん来たのだろうけれど、ずいぶんの長さがさっぱり思い出せない。思い出そうとすると、ひどく疲れた。とにかくまだまだ走らなければいけないことは分かっていたから、僕は思い出そうとすることをやめた。それで疲れは全部消えた。重くなりかけた体が軽くなって、僕はひとつ大きく息を吸うつもりで、口を開けた。
 声が唐突にその口をついた。
「僕はいつから走ってる?」
 と、僕は問いかけた
 そうか声が出るんだ、とまず思い出した僕は、それから、間違えた、と思った。いったい誰に向かって尋ねたつもりだったんだろう。僕は一人だ。背筋をのばして、力を込めて足を蹴る。自動販売機の強いライトが、僕を一度照らして過ぎていった。僕は走った。
「さあ」と彼は答えた。「知らない、そんなこと」
 僕は走りながら彼を見た。彼も僕を見た。彼は少年で、歳は僕と変わらないくらいで、瞬きもせずに僕を見ていた。
 彼が誰なのか、僕は疲れる間もなしに思い出した。僕は彼と、ずっと二人なのだ。最初からずっと、一緒に並んで走ってきたのに、彼のことを忘れていたなんてとても信じられなかった。
「君にも分からない?」
「どうでもいいだろう、そんなこと」
「そうかもしれない」
 僕はうなずいた。彼は前に向き直って、黙々と走った。白く発光するシャッターが彼の向こうを流れていった。じらじらと輝く街灯の明かりで、彼の顔にはまつげが影を差している。
 僕は走りながら上を見上げた。等間隔の街灯が、順番にやってきては僕の視界を真っ白にして、流れていった。飛んでいく道の両脇からも明かりがせり出して白い。空は、少し見えた。のっぺりと青い。昼間の青さではなく、日没の青さだ、と僕は思った。明かりが眩しくて、あまり長い間見上げていられない。顔を下げてから、太陽はいつの間に見えなくなったんだろう、とふと考えた。どっちの方へ沈んだのだろう。さっぱり、覚えがない。何も考えないことにしてこのまま走ろうか、それとも、眩しいのを我慢してもう一度空の具合を見てみようか、と僕は考えた。何も訊かないうちに彼が答えた。
「前を向いて走れよ」
 我慢してまでたしかめる必要はまったくない。また疲れ始めていたところでもあったから、僕は言われたとおりに前を向いて走った。体の重さなんて今まであまり考えたこともなかったのに、考え事をすると、それがいちいち気になるのだ。走りにくいし、何だか息も速くなる。どうでもいいか、と思った。太陽なんてどうでもいいか。体はすぐさま軽くなった。僕はそれで安心したが、ほっと息をついた拍子に、またするりと声が出てしまった。
「あとどれくらい、走ればいい?」
「どうでもいいだろう、そんなこと」
 彼は心底どうでもよさそうに言った。
「走っていたらいいんだ。他のことは関係ない」
 僕はうんと答えてうなずいた。彼がどうでもいいと言うなら、どうでもいいのだろう。僕は彼のことを心の底から信用している。僕は慎重に口を閉じて、黙々走った。街路樹があって、それもどんどん後ろへ流れた。
 僕はふと足元を見た。道もどんどん流れていく。黒い地面はちらちらと白や黒に光って僕の目を回した。瞬きしながら前を向いたとき、なにか小石のかけらを蹴飛ばした。ぱっと見下ろすと、それだけ流れに逆らって少し転がり、街路樹の根っこの辺りに吸い込まれて見えなくなった。僕は走っている。明かりを受けて真っ白なガードレールが一連なりに流れていく。
「前を向いて走りなさい、って言ったでしょう」
 彼女に高い声で叱りつけられて、僕は慌てて顔を上げた。ごめん、と謝りながら、僕は隣で走っているのが少年だと思い込んでいたことを考えた。ずっと一緒にいる相手に、どうしてそんな素っ頓狂な思い違いができたのか、我ながら不思議だった。
「ふらふらしていないで、ちゃんとしなさい。一生懸命走っているだけでいいのよ」
「そうなの」
「そうよ。私のことを信用しているでしょう?」
 僕は彼女を見上げて瞬いた。
「うん。そうだった」
 忘れるところだった。彼女の言うことはいつも正しいのだ。僕は前を向いて、つとめて一生懸命に走った。ぼんやりしていると彼女から声が飛んでくるから、少しも気が抜けない。街は同じスピードで前から後ろへしらじらと流れていった。僕はひやっとした風を切って走った。よそ見をするなとか、余計なことを考えるなとか、彼女に注意されるたびに僕は慌ててそれを正す。彼女が言うことは必ず正しい。僕はそれに従わなければならない。
 景色はどんどん飛んでいった。眩しい窓が飛んでいって、無人のスーパーマーケットが煌々と飛んでいって、ひやっとした風は僕の首筋を冷やし続けた。
「また、よそ見してる」
 慌てて前を向く。ごめん、と謝って、それからちょっと首をかしげた。僕は前から、こんなに怒られていただろうか。彼女はこんなに怒っていただろうか。そうだ、よく怒られた、と僕は自分で自分に答えた。彼女は僕よりちょっと年上で、気が短くて、僕はよく怒られる。よくって、どのくらい? 僕は隣を走る彼女を見た。彼女は髪の毛が短いから襟足が真っ白に眩しかった。
「また、くだらないことを考えているでしょう」
 僕の方を見もせずに、彼女が言った。僕はほとんど反射的に、ごめんと謝って、なんだかとても声を出しづらいことに気がついた。息がひどく上がっているのだ。耳の奥でどくどくと音が聞こえる。心臓の位置がはっきり分かった。僕は僕に心臓があったことを思い出した。手足が重くて、息が喉をこすって、僕の体が生々しい。
 なんだか、おかしい、と僕は思った。足が重い。走りにくい。もう考えるのはやめよう、と僕は念じた。もう考えるのはやめよう。
「余計なことを考えるのはやめなさい」
 彼女が僕を見ていた。真っ黒な目が僕を見ていた。真っ赤な唇の動きが、僕の目に尾を引いた。
「余計なことを考えるのはやめなさい」
 僕はうなずいた。動悸も息切れもなくなっていた。彼女は鼻を鳴らして前を向き、長い髪を払った。真っ黒な髪の毛が月明りで光った。また怒られてしまうから、僕も前を向いて、しっかり足を蹴って走った。
 月明り?
 心臓が跳ねた。転びそうになりながら彼女を見た。彼女は髪の毛が短いから襟足が真っ白に眩しかった。でも、違う。僕は上を向いた。等間隔で流れていく街灯に明かりがついていなくて、空がよく見えた。街灯の向こうに見え隠れして、細い月が浮いている。
「前を向きなさい」
 彼女が強い声で言った。僕は空から目が離せなかった。
「前を向きなさい」
 ごめん、と言いかけた口が別のことを言った。
「僕はどうして走っているの?」
 僕は空から目が離せなかった。月が浮いている。街灯が邪魔だ、と思って、瞬きしたときには街灯はなかった。通り過ぎた自動販売機は暗かった。空に月が浮いていた。
 息が苦しい。僕はとても疲れている。足が重い。ちゃんと走れない。心臓が痛い。
「僕は走らなければいけないの?」
 息が上がってしまって、うまく喋られなかった。それでも彼女にはきっと聞こえている。彼女はきっと怒るだろう。せめて前を向こうかと考えたが、疲れているので、もう顎を引く方が難しい。窓は黒くどこかへ消えていて、スーパーマーケットは暗かった。彼女は怒らなかった。
「どうして、そんなことを言うの」
 僕は彼女を見下ろした。泣きそうな声に驚いて、疲れが少し飛んでいた。彼女は走りながら、僕の腰の高さで泣きそうな顔をしていた。
「どうして、そんなことを言うの」
 僕は慌てた。彼女は幼いのだ。泣かせてしまってはいけないと、僕は慌てた。
「ごめん。変なこと言って」
「変なこと考えちゃだめ」
「わかった」僕はうなずいた。「変なこと、考えない」
 僕はちゃんと前を向いて、ちゃんと走った。彼女も満足そうに走っていた。僕はちゃんと走っていたけれど、幼い彼女もまったく遅れずについてきた。道はなめらかに黒かった。
 なんだか、おかしい、とすぐに思った。僕はさっきまで何を見ていたのだろう。たしかに何かを見ていたのだ。
 僕は彼女を見下ろした。つやつやとした髪がなびいている。僕は瞬きをして、そして思い出した。彼女が素早く顔を上げて、だめ、と言った。僕は構わずに上を見上げた。息が上がる。
「僕は走らなければいけないの?」
 のっぺりと青い空に、月が張り付いている。張り付いている。月はそこでじっとしている
「僕はどうして走っているの?」
「そんなこと言っちゃだめ」
 走るの、と彼女が下から駄々をこねた。でももう僕は疲れてしまって、顎を引くのも難しい。走るのも難しい。もう足はほとんど動かない。
「走らなければいけないの?」
 ガードレールが飛んでいく。茶色い屋根が飛んでいく。明かりの消えた自動販売機と、売店の暗いシャッターと、空っぽのガレージと、暗がりのスーパーマーケットが同じ速さで飛んでいく。僕はもうほとんど足を引きずっている。街はずっと同じ速さで流れていって、彼女も僕を追い抜かない。月がそこでじっとしている
 僕と月の位置関係はいつまで走っても変わらない。
「僕は走ってなんかいない」
 僕は叫んだ。
「走ってなんかいない」
 僕はそこに立ち止まった。
 ガードレールが飛んでいく。茶色い屋根が飛んでいく。明かりの消えた自動販売機と、売店の暗いシャッターと、空っぽのガレージと、暗がりのスーパーマーケットが同じ速さで飛んでいく。僕は立ち止まっている。走っていく街の上にじっと浮いている月を凝視している。
「僕は進んでなんかいなかった」
 息が荒れてほとんど掠れた声で僕は言った。僕はを振り向いてくり返した。
「進んでなんかいなかった」
 彼は曲がった腰の後ろで手を組んで、老いた目を眩しそうに瞬かせながら月を見上げていた。
「僕はずっと走っていた。でも、僕はずっとここにいた」
「そうかね」
「動いているのは僕じゃなかった」
 黒い地面が僕の足の下をすり抜けて前から後ろへ走っていた。街並みが前から後ろへ飛んでいった。動いているのは街だった。動いているのは僕ではなかった。
「どうして気づかなかったんだろう」
 彼は黙っていた。僕は息をはずませながら、また上を見上げた。走っていく街の上で、のっぺりとした空に、月が張り付いていた。
「どうして、今まで気づかなかったんだろう」
 僕は呆然とつぶやいた。
「僕が動いていない証拠に、月はあそこに」
「月はずっとあそこにいたのに」
 僕はを振り向いた。は呆然とした顔で月を見上げていた。
「動いているのは僕であるはずがなかったのに」
 は呆然としたような、おびえたような顔で月を見上げていた。
「どうして気づかなかったんだろう」
 僕は僕に向かって手を伸ばした。ガードレールと、茶色い屋根と、自動販売機と、売店のシャッターと、空っぽのガレージと、スーパーマーケットが僕の後ろを流れていった。
「どうして気づかなかったんだろう」
 僕の手の先で僕は消えた。黒い地面が足の下を滑って、街並みが飛んでいった。月はそこにじっとしていた。月がただじっとしている下で、街は流れ続けていた。

今年の春だっけ? に文芸部OBと愉快な仲間たちでつくった部誌(?)に提出しました。
これ、太字にしてあるところ、本当は強調点をつけていたのですが……
Webでルビの形式をとるとどうしてもレイアウトが崩れる。非常に読みにくい。
ので苦肉の策でこんな感じに。紙媒体ではちゃんと強調点にしていました。
この倉庫、過去に紙媒体に出したものには基本的にまったく修正を加えていないのですが
これに限っては(太字処理に加えて)文章もこまかいところ直してあります。
私の中でまだ生きてるってことかな。直した方がいいと思いました。わりと新しいからでもあるかも。

2011.11.20