日差しが強い。時期相応に世間は、ぐったりと茹でられていく。
葉子の耳には、クーラーと扇風機と、明人のシャーペンが走る音だけが聞こえていた。とうに閉めた窓の向こうでがんばっているはずの蝉の声も、そうと意識しなければ鼓膜には届かない。部屋は清潔に閉ざされている。
違和。
浅く小さく息をする。葉子はベッドの上に仰向いて、真っ白い天井を見つめ続ける。明人は机に向かって黙々と予習を進めていて、そのままどれくらい経ったのか葉子には分からない。体をねじれば壁の時計が見られるが、葉子はそれをしなかった。ただぼんやりとすることに、時間という概念は少しも必要ではない。
葉子はおもむろに右手を上げて、自分の額に甲を当てた。明人、と久しぶりに声を出す。
「……暑いです」
返事はない。天井をぼうっと見上げたまましばらく待って、やはり何も応答がないことを確かめてから、葉子はもう一度明人を呼んだ。
「ちょっとだけ扇風機貸して」
「断る。人の家に上がりこんで、涼しい思いをしようってのが間違えてんだ」
「……ああ、耳が痛いな」
窓を閉めても室温が上がっていかない程度に抑えられた冷房は、涼を得るのにほとんど意味を成さない。部屋に一台の扇風機は、主人に顔を向けている。扇風機を切って冷房をもっと効かすのと現状とでは、どちらがより経済的なのか、葉子は考えようとしたが分かるはずもないので途中でやめた。
「――せめて窓開けてくれたら、少し風が通るんだけど」
「蝉がうるさいんだよ」
明人は本立てを探って、下敷きを一枚、葉子に投げて寄越した。肩越しのノールックパスは狙いが定まるはずもなく、ベッドに当たって床に滑った。放り出していた葉子のスポーツバッグに当たって止まる。葉子は上半身をベッドからずり下ろすようにして、下敷きに手を伸ばした。
フローリングにぴたりと張り付いたプラスチック板を苦労して捉えて、葉子はベッドの上に体を戻した。下敷きで顔を仰ぎながら、シャツの袖口で口元を拭う。部活をするつもりで着てきたシャツは、ほとんど汗を吸わないままさらりと乾いていた。
*
昼食をすませて午後、定時少し前に葉子が体育館を覗くと、すでに部員はほとんど集まっていた。
「こんにちは」
声をかけて中に入る。床板は冷たい。
集合している部員は十人近く、入口のそばで輪になって談笑していた。葉子はそのすぐ横を通り抜けて、輪から少し離れた場所に腰を下ろした。言葉も視線も葉子には向けられない。沈黙すら起こらず、だだっ広い体育館には楽しそうな笑い声がはじける。葉子は黙ってシューズを取り出した。
蝉が鳴いている。体育館の外、距離は近い。
葉子はシューズに足を入れて、つま先の方から順に、靴紐を締めていった。履きなれたシューズは指にも馴染んで、葉子の足をきちりと包んだ。もう一方のシューズも丁寧に靴紐を締める。
一際大きな笑い声が起こったが、話の内容はよく分からなかった。ちらりと横目に見たチームメイトの足元には、まだ靴を履いていないものもあった。
靴を履き終える。葉子は紐の先を丹念に結んで息を吐き、壁にもたれて時計を見やった。練習開始まではまだ六分ある。右耳に話し声を、左耳に蝉の声を聞きながら、葉子はぼんやり時間を待った。
くらくらとするくらいに音が反響する。
理由は分からない。果たして葉子が悪いのか、彼女たちが悪いのか、いつの間にか当然のように壁はできている。
「――じゃあ、次の日曜日、集まれる人っ?」
はーい、と手が上がる。いちにいさんし、と誰かが数える。蝉の声が強まる。葉子は自分のシューズに目を落とした。
靴紐の先に手を伸ばす。
軽くつまんで引っ張ると、ちょうちょ結びを案外簡単にほどけた。脱いだシューズをスポーツバッグに仕舞いなおして肩にかける。体育館を出て行く葉子に、声をかける者はやはり居なかった。
「じゃあ皆、三百円ずつ出し合ってさ……」
日陰の風は爽やかに涼しい。職員室に行こう、と葉子は決めて足を踏み出した。
*
「明人」
また名前を呼ぶ。返事はないが別に構わない。
赤い半透明の下敷きは、顔の前をよぎる度にたやすく葉子の視界を塗り替えた。目が眩んだ気がして瞼を少しだけ引き下ろす。ゆるゆると口を開く。
「何かの本で読んだんだけど。脳波の研究でね、面白い結果が出てるんだって」
返ってくるのは、ただ壁に話すのと同じだけの沈黙だった。それでも明人の耳は葉子の方を向いている、その気配がする。葉子は空いている片手を天井に向かって広げた。
「例えば、私が手を伸ばそうとするでしょう。これね、手を動かそうって私が思い立つ0.5秒前に、脳波にはすでに動きがあるんだって。意識より先なんだよ」
「……そ」
「0.5秒って、結構あるよね。私たちが何か意志を持つのは、脳が動いた半秒後なんだってさ」
顔を仰ぐ右腕が疲れて、葉子は下敷きを左手に持ち替えた。明人は問題集とノートを見比べながら手を動かし続ける。扇風機はもちろん働き続けている。
「だから実は人間には、自由意志はないんじゃないのかって話。神様の操り人形って設定はファンタジーの常套手段だけど、科学的に立証されてしまうかもしれない」
「…………」
「誰も彼も、人生ぜーんぶ、台本通りなのかもね」
寝返りをうって壁の方を向く。
「だとしたらさ――」
ギ、と明人の回転椅子が回る音がした。と同時に数学の問題集が宙を飛んで、葉子の頭にばさりと覆い被さる。厚い問題集にはわりに重量があった。
「……痛い」
「俺の意志じゃない。神様がやったんだ」
振り返った勢いそのままに明人はくるりと一回転して、また机に向き直った。英語のテキストを引っ張り出して予習を再開する。
葉子は顔の上の問題集を払って、仰向けに寝返りをうった。
「……面倒くさい人だね」
お互いにな、と明人の声は冷めている。
*
「退部?」
きょとんと瞬く顧問教師を、葉子は無言で見下ろした。頭頂部はまだまだ健康らしい。
教師にしては若い男の、部内でこっそりと付けられたあだ名はユーレイという。由来はひょろりと細長い体型なのか、少しも部活に顔を出さないところからきているのか、それはもう判然としない。きんと冷やされた職員室で、葉子はユーレイと向かい合う。
「退部届は、まだ書いてないんですけど。今日からもう休んでもいいですか」
「……部活なあ」
ユーレイは葉子を見、視線を無意味に惑わせて、右手で頭を掻いた。
「休むのは、お前の自由だけど……。辞めるのかお前」
間抜けな質問だ、と葉子は思った。話の流れからして明らかではないのか。
黙ってスポーツバッグを肩にかけなおす。ユーレイはどこか宙を眺めたまま、頭を掻きながら細かく何度か頷いた。
「そうかあ……。まあ、どうしても辞めたいって言うなら、別に止めないんだけどな。そこら辺は自由だけど。――部内で何か嫌なことでもあるのか」
「……別に。気が向いただけです」
葉子は答えた。その言葉の全てが嘘というわけでもない。
クラブを辞めるかどうかを真剣に考えた覚えはなかったし、なぜこうして思い立ったのかと聞かれれば、なんとなくと言うしかない気がした。部での扱いに対して思うのは、不満とか怒りとは違う。ただ気だるいだけだ。
何も満ちない、何も張りつめない。弛緩してふわふわと軽い時間には害も益もない。
小さく息を吸って吐く。ユーレイは腕を組んで、うーんと唸った。
「――まあ、お前のことだから、ちゃんと考えた上でのことなんだろうな」
「だといいですけど」
「そういえばお前、最近ちょっと成績落ちてたな。だから辞めるのか」
葉子は自分の成績表を思い返した。
「……そういうわけじゃないです。でも勉強はしなきゃなんないですね」
「誰かに教えてもらうか? 先生に頼んでもいいし、誰か友達でもいいか。ああ、及川なんて帰宅部だしな」
「明人ですか」
「あいつ、最近、成績伸びてきてるだろう」
「はあ……そうですね」
「お前確か、及川と仲良かったよな」
「はあ。そうですね」
明らかに適当な葉子の返事に、ユーレイは首をかしげた。
「違うのか」
「さあ。よく分かんないです」
葉子は正直に答えた。
世間一般で言う「仲良し」に、明人を当てはめていいものかどうか。一緒に居ても不快でないという、それだけの話である。ある意味では貴重な存在だが、一・二ヶ月くらい顔を合せなかったとしても何ら支障はないと葉子は思う。
明人もおそらく、同じことを考えるのだろう。
葉子は静かに息を吸った。そういう不完全なシンクロで葉子と明人は繋がっている。
ユーレイは不審げに眉をひそめた。
「分からないってなんだ」
「いえ。深い意味はないです。――じゃあ、届は今度」
キリがなさそうだと判断して、葉子は会話を切り上げた。クーラーが効きすぎている。これ以上ここにいると出た時に辛い。ユーレイは、そうだなと軽く頷いて葉子の退室を許した。
職員室を出ると、肌に迫るほどの熱さがあった。昇降口に足を向ける。明人の家に寄っていこうとなんとなく決めた。体の中が空洞になったようで気だるい。
空(から)、ということに焦る、その焦りはやはり空のような心持ちだった。
夏は好きでない。なにもかもが強すぎる。
*
陽は少し傾いた。外の気温は多少下がったはずだが、部屋の中にはまだほとんど影響がない。顔を扇ぐ葉子の腕もいい加減疲れている。扇風機の風を受けている明人はあくまで涼しそうに、英単語を小声で呟きながらノートを作っていた。
「明人」
「何」
「……しんどいね」
「気のせいだろ」
葉子はベッドの上に身を起こした。じりじりと時を刻んでいる時計を見上げる。葉子の視線を受けても、円いアナログ時計はまるで動じず、規則正しく秒針を動かしていた。
本当に、と葉子は呟いた。
秒針が一周するくらいの間、葉子は不動のまま、温い空気をゆっくり呼吸した。ベッドから下りて体を伸ばす。明人の肩越しに手を伸ばして下敷きを本立てに返した。
「今度さ」スポーツバッグを拾い上げる。
「国語教えてほしいんだけど」
明人は左手を軽く振って了承した。それじゃ、と葉子はドアノブをひねる。蝶番が小さく軋んだ。ばいばい、と明人は振り返らずに言った。
玄関でスニーカーを履いて、葉子は外に出た。あの不快な温度差はさして感じない。
蝉の声が降り注ぐように響いている。これに時雨の文字を当てた先人は正しい、と頭の隅で葉子は思う。夜になる手前、蝉がいつの間にか鳴き止むのを葉子は当然知っている。
小さく笑った。自嘲のような苦笑のような、笑いたい衝動のままにこぼしたそれの意図は葉子にも理解できなかった。目を閉じた。
蝉の声が反響する。耳から入り込んでぐらぐらと響いている。
アスファルトの上で、葉子はゆっくり深呼吸をした。乾いて熱い空気がするりと気管を滑り落ちる。肺に満ちて血液に混ざって、自分がほんの少し膨らんだ気がした。蝉の声が半歩退(さ)がったのはおそらく気圧の問題だった。
陽は少しずつ傾いている。
葉子は立ち尽くしたまましばらく、夜へ流れる空を見ていた。
2008年、高校一年生の春ごろ。……三年も前なのか。ひえぇ
気分悪いくらい下手だけど(今も大した進歩はない)、作品としては良作の部類かも。
私の作品はストーリが無いけど、無いだけに、裏にストーリー性を感じさせる仕掛けをするべきってことね。
脳波の話は本当ですが、0.5秒ってのは確かじゃないです←
色んな研究結果があるような……。でも間違えてたとしてもこれはこれで置いておこうと思います(笑)
2011.9.6