濡れ渡る世界のどこか片隅

 するり、と水滴が傘を伝う。暗く色を呑み込みながら、やがて地面に引かれて落ちた先を、性急な雑踏が踏みしめた。
 靴が入り乱れて水を散らす。裾の端から濡れていく。空から地面までが灰色な湿気に沈んでいた。アスファルトは色を暗くして、足の裏で、砂利がぎりぎりと軋む音をたてている。
 小雨。
 諄希(あつき)は駅前でようやく玲子を見つけた。不機嫌な顔が行き交う時間帯だった。
 雨は陰鬱に光を宿して広く降る。電車を降りた人の波で、地面は呑まれるように存在を薄めた。めいめいに傘が開き、暗く彩度の落ちた道を、俯(うつぶ)すようにいきいそぐ。玲子は一人花壇に腰かけ、どこを見ているのか、人の群れに顔を向けていた。
「姉ちゃん」
 七分丈のジーンズに紺色のTシャツ姿の玲子が、人の合間に見える。人の波を逆行しながら、紺で良かった、と諄希は余計なことを考えた。これが白なら下着が透けている。
 悄然と立ち尽くす時計の下に玲子はいた。
「姉ちゃん。――傘」
 すぐ横に足を止める。
 玲子はゆるりと諄希を見上げた。雨に視界がくもり、不鮮明になる。濡れそぼった女を見下ろして、諄希は慎重にまばたきをした。
 玲子は常人の表情だった。
 諄希はゆっくりと瞼を上下しながら、末恐ろしい、という言葉をちらりと考えた。これは異様な光景のはずだった。鞄一つ持たず、つややかに咲いた花壇に腰かけ、一人でぼんやりと雨に濡れていながら、それでいて玲子はふてぶてしく普通に見える顔をしていた。
 諄希は視線を下げ、玲子の細すぎて白い右足の脛に、まだ新しい青あざを見た。
 何の感慨もなさげに、玲子は視線を切る。傘をさし出した手をもてあましながら、諄希は、玲子が見ていると思われる辺りをふりかえった。
 何もない。人がいる。
「早く帰ろうよ」
 玲子は答えない。人が流れていくのを目で追いながら、諄希は一呼吸分だけ間を持った。
「――何見てんの」
 玲子は右手をあげて、大きめの円で目の前をあいまいにかこってみせた。それが何を指しているのか、それとも、特に何かを見ているわけではないと言っているのか、諄希には判断がつかない。
 雨は小声で、重さがない。
 諄希はしばらく玲子と同じに、行き交う人々を眺めてみた。常なのか偶然か、駅前は異様な寡黙で閉じていた。足音と車と電車の音、密な人の気配は雨に溶けて、逃げ場もなく満ちている。
 十日前に梅雨入りした。空梅雨かと思いきや、突然降り始めて今日で四日目になる。人々は煩わしげに傘をさして、身を縮めるように、内側へうずもれていた。
 玲子には一瞥もない。
 右肩から左肩へ傘を移して、諄希は、この異様の女を脇に通りすぎながら、なぜ誰も意に介さないのかといぶかしんだ。まさか幽霊ではあるまいかと思案したが、いかんせん諄希には玲子がよく見えている。
「――暑くないの、姉ちゃん」
 玲子はなおも黙っている。黙々と波に順行する人々を見ていても、諄希が思うに、何の面白みもない。できるかぎり能動的な鑑賞をするなら、滑稽ではあるが、しかしごくごく退屈だと思えた。玲子はじっと口を閉じて何かを見ている。
「もしかして寒い?」
「まさか」
 ようやく返答を得て、諄希は玲子をふりかえった。
「傘、せっかく持ってきたんだから、させよ。風邪ひくだろ」
「今さらさしたって、今までずぶ濡れになった分がどうにかなるわけじゃないわ。もう濡れてるんだから、風邪をひくなら手遅れだし、ひかないなら今から傘をさす意味なんてまったくないし、だいたいあんたがわざわざ傘を持ってきたからって、私がそれを使う理由になんかならないのよ」
 早口な玲子の弁舌に、たいした中身はないと判読するのに、数秒かけた。その間に玲子はまたふっつりと口を閉ざしてしまった。
 玲子は傘をさすのが嫌いだ。親はよく手を焼いた。
 今日に限って嫌がる理由は知らないが、ある程度の歳を重ねてしまえば、それ以降に駄々をこねることは何度もない。ただ少し、不機嫌に口数が減る。諄希にはそれがまったく不可解だった。
 降っていれば傘を持って出るべきだ。至極当然の行動で、多少面倒でも仕方がない。仕事をするにも、友人と会うにも、まさか水を滴らせているわけにはいくまい。社会はそういう風になっている。
 だから玲子が異端であることを諄希は疑ったことがないが、もっとも、玲子が傘を嫌うのが、面倒ゆえなのかどうかという話なら、それはよく分からなかった。そのあたりの追及を試みる気は、諄希には起こらない。
 まったく起こらない。
「帰ろうよ」
「…………」
 斜め後ろ三十メートルの停留所にバスがつく。人の気配が濃く匂った。
 傘をさし出す手が疲れてきたことに、諄希はふと気づいた。そういえば足も疲れている。玲子があくまで無反応であることを確かめてから、その場にしゃがみこんだ。
 雨の気配が絡みつくように近くなる。傘をほとんど肩と頭で支えているせいだった。地面についた玲子の傘も、反対の肩へもたせかけた。
 低く降りた視界に、水しぶきの光が痛む。まばたきながら片手を持ち上げて、瞼を押さえようとした。
 ――知りたくないなら、それでもいいんじゃない、私はかまわないもの。
 ふいに何か昔の言葉を思い出した。玲子の声だ。何の会話だったか覚えがない。
 ――もしあんたが芯からそれで納得する人ならね、それで済むかもしれないわ、もしもそうだったならね。
 指先が瞼へ届く前に、ふっと目の前が翳った。
 諄希は目を開けたまま動きを止めた。
 狭い視界をうずめて足が行く。船酔いのような感覚が額の辺りをかすめて、半端な息がもれた。人の波が塊になって流れ、やがて潮が引くようにその影が去る。暗く淡く光を受けると、地面は黙って次を待った。黙って諾々と雨を受けていた。
 どれほどか間が空けば電車が止まり、次の足音が押し寄せた。雑踏が目の前をさらう。暴力的な性急さで次の一歩を踏んでいく。間近を通った靴から雨水がはねてきて、それが晴れるとまた、淡い地面が露(あらわ)になる。
 傘と地面の間で明滅する光景を、諄希はしゃがんだまま見続けた。およそ同じ向きへ、そのくせ交錯する足並みを見続けた。波と波の合間で、表情もなくどこかを見上げている地面も見た。耳元に聞こえるはずの雨音は、単調すぎて、滅多に意識には上らない。
 隣で玲子は動かなかった。

 大気は重く湿気を含み、べっとりと肌に張り付いた。ぬるい風がようやく揺れて、頬から首筋へ流れていく。
 人が動くせいかと思ったが、そういうわけでもなかった。また唐突に影が晴れ、虚ろな地面を見ても、風が吹いていた。雲が晴れるのではなく、雨が増すのを予感した。波は不規則に寄せては引く。発作のようだ、とどこか遠いところで思う。足並みをそろえて。それでいて、乱雑に。
 こめかみを汗が伝った。ぞくりと背筋が震え、その感触で諄希は自分の体を思い出した。息が深くなる。忘我でいたことを知って、軽い頭痛がした。意識してまばたく。水しぶきにくもったままで、あまり意味はなかった。
 急かすように拍を刻んで、背負った傘に粒がはじける。
 手を動かそうとすると、関節が小さく軋んだ。指を伸ばすだけで奇妙な感触が骨まで響き、どのくらい動かずにいたのだろう、と考えた。驚きはしなかったが、寒気がした。腕をなでると肌が粟立った。
 指先に細い傷跡が触れる。いつか玲子につけられた傷だ。
 雨音は細く強く、暗い大気を責めている。

 玲子が立ち上がった。
 目を上げる。傘に隠れて、玲子の下肢しか見えない。ほんの少し傘を傾け、身をよじればすむ話だ。諄希は身体を動かそうとして、――空回りした息が喉をこすった。凍えたように動かなかった。慎重に瞼を下ろした。
 むろんこの暑さで凍えるはずがない。背筋がひどく濡れている。にじみ出て肌を流れる汗を、長い時間拭いもせずにおいたせいだ。
 その背筋が寒い。
「――ねえ、諄希」
 やけに楽しげな声が傘ごしに降ってきた。目を開けてから、聞こえないふりをすべきだった、と絶望的な後悔が脳裏をかすめた。引かれるように体が動いて、玲子の顔を捉える。腕が濡れた。
「ひとつ、訊くわ。あの雲の上に何があると思う?」
 雨空を背に負って、玲子はらんらんと目を輝かせていた。見上げた眉間が痛む。影ばかり見ていたせいで、空がまぶしい。
「――青空」唇を開く。正常に声が出た。「あと、太陽も」
「どうしてそう思うの」
「あらゆる科学がそれを証明してる」
「科学!」
 玲子は芝居がかった仕草で両手をかかげた。雨脚が強まる。諄希は思わず玲子の手の先を追って空を見た。
「科学! そうね、素晴らしい世の中だわ。時計は昼を指しているもの、あの上に太陽があることを、誰が疑う?」
 空は鈍い灰色を一面に刷いて、見下ろすように低く、一様に続いていた。光源はなかった。明かりというなら、雲そのものが発光している。無防備になった顔に雨がかかって喉に伝った。
 蓋。あるいはそこが、空の果て。
「傘は嫌いよ」
 どうして、と問いかけたのをかろうじて飲み込んだ。低く呟きをもらした女はふらりと動いて、諄希の目の前を横切る。
 慌てて立ち上がり、足がもつれた。感覚がないほどに痺れていた。
「待って……これ、姉ちゃん」
 傘を開き、玲子の濡れた手に押しこむ。
「自分で持てよ」
 髪から顎から雨水を滴らせ、わずかの抵抗もなく、玲子はそれを握った。諄希は目の端に、いつの間にかそこに止まっていた電車を見た。
 背後から一際大きな波が諄希を飲み込んだ。
 気を呑まれて注意がそれた傘に、後ろから誰かのそれが当たった。絡めとられるように体の平衡を失う。その肩に別の肩が触れて、あっけなく地面に手をついた。転がった諄希の傘は、そこだけ避けられて、人の波が湾曲した。
 あっという間に全身が濡れる。思った以上に雨脚が強い。
 まったく不可解だと思った。傘がなければ濡れるのだ。不可解だ、と声に出した。かすれた声は雨音で自分にも届かない。髪から頬を伝った雨水が開いた口に入り込んだ。
 傘は嫌いよ。
 どうして、と問いかける勇気は諄希にはない。
 力の入らない足でなんとか起き上がる。濡れた服が重かったが、ちゃんと立ち上がれた。安堵の息をつき、傘を拾おうとして、伸ばした手が、ひどく震えていることに気づいた。
 え?
 動揺したとたんに体中が震えだした。傘まで手が届かない。体が沈んで膝をつく。人の流れは止まらなかった。玲子はとうに、どこかへ見えなくなっていた。溜まり水の中に手をついて諄希は、雨粒を飲み下す。
 雲は暗く明かりを孕んで、夜の風を待っていた。

2009年、高校二年生の秋……ですね。夏休みに書いたやつをやや修正したはずです。
一際凝って書こうとしているだけに、一際”子供っぽさ”が出ている。恥ずかしすぎる。
どれを読み返したって恥ずかしいのですが、これは特に苦手意識(?)があるんですよね。
小説って難しいなあ。
諄希は小学生くらいだろうとよく言われましたが、筆者的には高校生くらいです。
筆力がひどいです。 あ、でも、諄希の名前はお気に入り。

2011.11.27