「あ」
「え?」
立ち寄った文房具店、知った顔を見つけて、明人は思わず声をあげた。赤色のボールペンを品定めしていた男はふり向き、明人を認めて瞬いた。中学時代の先輩だった。
「加瀬さん」
「明人? かなり、ひさしぶり」
「――っす」
そばに寄ると場所を詰めてくれたので、明人は軽く会釈をしてから加瀬の隣でカラーペンを物色した。神南に行ったんだ、と加瀬は明人の制服を横目に見てつぶやく。はい、と明人はうなずいた。
「サッカー部は?」
「入りませんでした」
「そうだよな。この時間に帰ってきてるんだから」
「加瀬さんは、やってたんですか」
「退部した。去年の梅雨明け。三年生の夏だったし、けっこう白い目で見られたけど」
喋りながら加瀬はペンのキャップを外して、試し書き用の白い紙に、たいぶ、と書きつけた。気に入らなかったらしく、元の場所へ戻して別のペンを手に取る。明人もオレンジ色のキャップを外してみた。加瀬の字の横に、何と書くか迷ったあげく、ぐるぐると単なる渦巻を描く。
「俺の知り合いも、退部したみたいです。先週の土曜日に」
「サッカー部を?」
「いえ、女です。バスケ、小学校からやってたやつなんですけど」
「ふうん。やめたの。なんで」
「知りません。たぶん、たいした理由じゃないですよ」
「明人、ピンク買うの」
明人は軽く肩をすくめて、指先につまんでいた桃色のペンを手放した。
「赤シートで消えるペン、もう一本あれば便利かと思って」
「えらいな。勉強してるんだ」
「いえ……そいつがよく、家に来るんです。六月くらいから」
「バスケ部をやめた子?」
「土・日なんかは、練習終わっても時間があるらしくて。帰りに俺の部屋に寄るんです。かならず」
「お前が言うと、色っぽい話には聞こえないな」
「実際、ないです。寝っころがって一時間くらいしたら、帰るんですけど」
男二人でボールペンを出したり戻したり、がちゃがちゃと音を立てながら、明人はすっと息を吐いた。
「そいつ、話し始めると、面倒くさいことが多いので。だから勉強しとくんです。さすがに、その邪魔してまで喋るようなことは、滅多にしませんから」
「ひょっとして、それで勉強習慣がついたんだ」
「成績上がりました」
「明人って、変わってるな」
「葉子ほどじゃないです」
明人は、黙って部屋に上がってきては明人のベッドに寝転がる同級生を思い返した。加瀬が音を立てて鼻をすすり上げる。
「……俺が変なのも確かですけど」
「自覚があるんだ」
加瀬はつぶやいて、ノック式の赤ペンを思案げにいじくった。
「俺、姉ちゃんがいるんだけど」
「はい」
「変人だよ。大抵、普通っぽい顔して、普通の社会生活送ってるけど。ありえない。オカシイんだ」
「加瀬さんと違って?」
加瀬は顔をそむけてくしゃみをした。
「風邪ですか」
「クーラーにあてられた。大学の教室、冷房効きすぎ」
また、くしゅんと音を立てて、鼻をすする。
「中と外が違いすぎる。あれは、よくないよ」
「そう思います」
手に握ったままだったペンを戻して、加瀬は明人の反対側へ移動した。消しゴムやらコンパスやら、手遊びにいじる加瀬を、明人は少し首をかたむけて見守った。
「俺、体調崩すと思い出すんだけど」
「はい」
「去年の梅雨に」
値札をなぞりながら首をひねる。「びしょぬれになって、風邪ひいたことがあって」
「傘、忘れてたんですか」
「いや、傘持ってなかったのは姉ちゃんなんだ」
「はあ」
「姉ちゃんの、一番具体的な、変なところ。傘さすの嫌いなんだ。もうハタチもすぎてるし、普段びしょぬれになるようなことは、さすがにしないんだけど。なんか、その日だけ」
手持ちぶさたで、明人は、ペンを順番に手に取っては渦巻きを描いた。加瀬はうろうろと手を動かしながら喋りつづける。
「ふらっと出てって、帰ってこないし、雨降ってるし、傘持って探しに行ったら、駅前で見つけて」
「はい」
「傘は渡したんだけど、俺がびしょぬれになって、姉ちゃんは先に帰ってった」
「すみません。わかりません」
「ちょっと説明しにくい」
「はあ」
「翌朝から熱が出て、四日間寝込んだ。姉ちゃんはけろっとしてたけどな」
「すみません。結局、なんなんですか」
「俺の中では、色々あったんだけど。上手く言えない。正直、自分でもよくわからないし」
加瀬はじっと商品棚を見たまま、緩慢に自分の腕をさすった。細い傷跡が白く光っている。
「高いシャー芯ですね」
加瀬が手に取ったままのケースと値札を見比べて、明人は言った。加瀬は自分が握っているものに初めて気づいたような顔で、黒いマッチ箱のようなケースに目を落とした。描かれているアンモナイトを少しの間眺め、変なデザイン、と呟いて、棚へ戻す。明人は茶色のペンで六個目の渦巻きを描いた。
「加瀬さんも、変わってると思いますよ」
「そうなんだよな」
うなずき、加瀬は明人の後ろを回って赤ペンの前へ戻った。
「明人も、たぶんそのバスケ部をやめた子も、すごいと思う。癪だけど姉ちゃんも、ある意味」
「はあ」
「この店、クーラー、きついな」
加瀬はつぶやいて、鼻をすすりながら、目の前にとりどり並んだペンをあらためて見比べた。結局ほとんど無造作に一本取り上げて、明人にひらりと片手をふる。
「それじゃ」
「あ……さようなら」
頭を下げ、背中を見送る。商品棚の向こうに見えなくなった加瀬が、店を出た頃を見はからって、明人もオレンジ色のボールペンを手にレジに向かった。店を出たときには加瀬の姿はなかった。店内との温度差にくらくらとしながら、停めてあった自転車の籠に鞄をほうり込んだ。強く、ひとつ息を吐く。
葉子は、すごいかもしれない。自分は、たぶん、何もすごくない。
思い切りペダルを踏んだ。降り続ける蝉時雨に、眩暈を起こしそうだった。
2010年秋、引退済でしたが部誌にねじこんでもらいました。えへへ。
「時雨月」の明人くん。加瀬も一度書いていたキャラですが倉庫にはまだ載せていませんね。
アンモナイトのシャー芯も、他校の方と合作させていただいた話に出てくるもので……
意味はないのですが自己満足です。神南は神田南高校です。部員の作品からパクりました。
引退してしまえばなんか怖いものはなかった。(最低
二人ともなんとなく不憫だけど、彼らはちゃんと折り合いをつけられる子です。がんばれ。
2011.11.20