どこかの日曜日

「傘、忘れてきた」
 よく晴れた日である。
 近年めずらしくもない猛暑の夏だった。彼岸まではやや日数を残して、あと少しのはずの夏日をいかに過ごそうかという頃合。今朝になって唐突に寒波がおとずれ、夏仕様の街があっさりと冷やされてしまった。どこの店にもクーラーは効いているし、うっかり暦に合った服を着てみればかなわない。昨日までは憎らしかった太陽が今日になってありがたく、文字通り雲ひとつない空から、こればかりは夏らしい日差しがさんさんと降り注いでいる。午後二時過ぎ、良い天気だ。
 隣で妙なことをつぶやいた美春ではなく、やや色の薄い青空を見上げて、太智(たいち)はおうむ返しにつぶやいた。
「……かさ?」
「うん」
「かさって、傘?」
「傘」
 日傘のことかと、首をひねる。
「日傘のこと、傘って、あんまり言わなくない」
 美春は辺りを見回してから、太智の手を引いた。
 たった今出てきたばかりの小さな雑貨屋を離れ、レンガ模様の薄汚れた歩道を東へたどる。太智のようにTシャツ一枚というわけではないが、キャミソールの上に半袖のカーディガンを重ねただけの美春も、同じくらい寒々しい。膝下丈のスカートに風が吹き込むのを見て、太智のほうが首を縮めた。ミュールを履いたつま先が色を失っている。なぜか日陰のほうへ寄っていこうとする美春の手を引き返して、太智は強いて日向を歩いた。
 ほどなくデパートにたどり着き、美春は大して迷うそぶりもなく、折り畳みの白い日傘をひとつ買った。二千円弱の支払いを済ませてレジから戻ってくる美春を、太智は眉をひそめつつ迎える。
「さっきまで、八百円のストラップに三十分も迷ってたくせに」
「別に、いいじゃない」
「悩みすぎて店員に笑われてたくせに」
「いいもん」
「あげく、買わなかったくせに」
「うるさい」
 デパートを出るなり日傘をさして、美春はさっさと歩いていく。どこへ行くのだろうかと、太智も後へついて歩いた。自前の日陰に収まっている美春を眺めながら、日焼けとか気にするほうだったか、と声をかけてみる。さすがに今日の気候では、日傘もあまり見かけない。一度日向で温め直したとはいえ、冷房につぐ冷房で、太智などはすっかり冷えてしまっていた。
「そうでもないよ」
「……知ってる」
 当然のような声音で言われてしまえば、後が続かない。黙って歩いて駅前の長い赤信号で立ち止まり、そうして美春がふと太智をふりあおぐ。
「どこ行くの?」
「知らねえよ。どっか行こうとしてたんじゃないのか」
「ううん……別に」
 太智は瞬き、少し顎を引いて、美春の顔をよくよく眺めた。もともと、やや浮世離れした感があるとはいえ、さすがに様子がおかしいだろうか。
「――お前」
 どうかしたのかと口にしかけた矢先、横から吹いた冷たい風に、美春が小さく身震いした。とっさに美春の手から日傘を取り上げ、太智は半ば怒鳴りつける。
「やっぱり、寒いんじゃねえか」
 美春は不満げな顔でひるみもしない。
「寒くないもん」
「本当は?」
「……ちょっと寒いけど」
「馬鹿」
 通行人の視線に気づき、太智はともかく日傘を閉じて、美春に返した。信号が青になっている。邪魔になるからと歩道の端へ美春を追い立て、日傘を開きたそうにしているのをにらんで止める。美春が何事かつぶやいた。
「何?」
「雨が……」
 それきり黙る。
 太智はため息をつき、少し間を持ってからうながした。
「いいから。言ってみ」
「……音がするから」
「音? ……雨音ってこと?」
 ため息代わりにこめかみを揉む。幻聴か耳鳴りかと半ば自棄(やけ)でたずねてみれば、真面目な顔で耳鳴りだと答えるので、太智も表情を改めた。
「病院とか」
「いらない」
 短く否んで、それから付け足す。
「……寝不足のせいだから」
「寝不足? ――毎晩十時に寝てるやつが、めずらしいことを」
 うつむきがちに日傘をもてあそぶ美春から目を離し、太智は額をこすりつつ頭上をあおいだ。寝不足で耳鳴りがする、耳鳴りが雨音のようだと、それくらいのことはあるかもしれないが。
 もどかしい思いをどう伝えればよいのかわからず、首をかしげかしげ、太智は地上へ視線を戻す。
「あのな、一応訊くけど、自分がおかしいことしてるっていう自覚はある? ……というか、今お前、かなりおかしいぞ。分かってるか」
 額から離した手のやり場に迷いながら、黙ったままの美春を見下ろした。
「お前、何かあった?」
 美春はやはりしばらく答えなかったが、太智が負けずに黙っていると、しぶしぶといった風情で口を開いた。
「何もないよ」
「白々しい。駄目」
 見上げてくる不満顔をにらみ返したものの、太智はすぐに折れた。言いたくなければ言わないのだろうし、無理に聞き出すこともない。それにしても、不安定な美春というものは好きにさせればいいのか、口を出してやるのがいいのか、扱いに困るところだ。
「でも日傘は駄目、風邪ひく」
「ひかないもん」
「季節の変わり目ごとに熱出すやつが何言ってるんだ。だいたい、日傘じゃ雨なんて……それ、晴雨兼用? じゃないんだろ。雨防げないぞ」
「小雨なら、いける」
 美春は真顔でうなずいてから、
「こんな天気で雨傘さしてたら、おかしいじゃない」
「……理性があるなら奮発してくれ。出し惜しむな」
 冗談でなく頭をかかえる太智を尻目に、美春はしばらく手の中の日傘を見つめていたが、やがてそれを几帳面にたたみはじめた。気づいて見守る太智の前で、白い日傘は縮み、バッグの中へ収まる。
「――雨、止んだ?」
「止んでないけど……」
 太智へのあてつけでもないだろうが、美春が頭上をあおぐ。陽光が冷気をつらぬいて美春の睫毛に影をさす。太智の目には少なくとも、美春の顔に表情は見えない。
「……帰って寝るか?」
 日傘を仕舞えとうながしたのは自分だが、実際にそれが叶ってしまうとわずかな罪悪感もあるというのが、人情の矛盾するところだ。美春が怒っているとも悲しんでいるとも見えなかったが、太智はともかく控えめにたずねてみた。美春は空を見上げたまま首を横にふる。
「どこか店に入るとか」
 これには少し間があり、太智が別の案を考えようとした頃合で、美春が口を開いた。
「なにか飲みたい」
「……わかった。奢る」
 美春はぼんやりと太智へ視線を戻して、少し笑んだ。
 点滅を始めていた青信号を渡り、ともかくも飲食店の固まっているあたりへ足を向ける。まるきり身を任せる態度で手を引かれている美春が、太智の半歩後ろでくすりと笑った。
「……やさしー」
「ハードルが低すぎる」
 揶揄(やゆ)の響きはなかったにせよ、この場合は喜んでいい褒め言葉でもない。太智は顔をしかめて首をふった。
「数百円奢られて話がつくなら、二千円の日傘なんて買わずに、最初から甘えろ。お前はだいたい頼みごとの類が少なすぎるんだって」
「のろけ」
「苦労話って言ってくれ。ちくしょう、お前、面倒くさい」
 照れるような気にもならない。半ば本気の太智の言葉に、美春は笑い、冷たい風に身をすくませた。街路樹の影がかからない位置まで太智が引き寄せるより先に、美春が自分で影を避け、首をかたむけて、頼みごとしていい、とたずねた。眉を上げてうながす太智に、美春は斜向かいのコーヒーショップを指さした。
「アイスコーヒーがいい」
「ホットにしろ、馬鹿」

大学の部誌、テーマ「雨」による短編小説
として提出しようとしたけど間に合わなかった代物です。途中で着地点を見失ってモチベーションが下がったこともあって。
「テーマが雨? よし、晴れの日でいこう」という発想だけを原動力に書き始めたらえらいことになりました。
うっかり甘々な展開になりそうで必死で抑えたという裏事情は秘密。
こんな展開は俺の小説じゃねえ! とか思ってました。
結果としてどの程度におさまったのか、もうちょっと時間をおかないと客観的に見れませんね。

2011.10.17