月がない。
 見える限りで最後の明かりが消えるのを、怜(りょう)は窓越しに見届けた。山間の小さな邑(むら)、どこも同じに粗末な家の一つで、暗いままに更けていく夜を眺めている。
 陽が沈んで一刻ばかり。この季節、夜半というほど遅い時間ではない。
「――暗いな」
 怜は小さくつぶやいた。
「もう、みんな寝たのか」
「これでも遅いくらいじゃの」
 部屋の隅から、怜の独白に答える声がある。
「客人をもてなすに、張り切った者がおったのじゃろうて」
 怜は頬杖から顔を上げ、声の主に目を向けた。
 灯台の明かりは、そこまでを十分に照らせない。薄闇の溜まった暗がりで、老婆は針仕事をしている。声の明瞭さに反して、腰は弓なりに曲がり、見た目にひどく小さかった。
「悪いね。大勢でおしかけて」
「何、客など滅多にあるものではない。それが旅芸人とくれば、皆も喜ばずにおれぬでな」
 首を振り、立てた片膝にあごをのせて、怜は軽く息をついた。
「ここが駄目なら、野営しかなかった。助かったよ」
 旅暮らしの怜たちにとって、野外で過ごす夜は特別なことではないが、今日のような闇夜にはやはり心許ないのが事実だった。邑を見つけたところで、大所帯ではいつも宿をもらえるものでもない。十余名の仲間を、快く全員招きいれてくれた邑人たちには、自然、感謝の念がわく。
 二日前、魔物の襲撃にあったばかりだ。深手を負った仲間もいる。今の状態で魔物と遭遇すれば惨事になるだろうことはもちろん、怪我人の療養を考えても、なんとかして屋根の下で休みたいと思っていたのだ。
 ありがたい。怜は静かに、目の前の蒲団で寝入ったばかりの少女に目を落とした。
「――その娘は、妹か」
 浅い闇の中で、老婆はゆっくりと頭を上げた。手元の動きは止めない老婆に、怜も少女をみつめたまま、さあ、とつぶやく。
「血縁というものに縁がないから。……でも、妹かな。志鳥っていうんだ」
 十六の年を数えた怜よりも、さらに二つ幼い。灯台の明かりを受けても顔は青白いが、小さな寝息は穏やかだった。
「志鳥が一番、傷が深かった。手当てはしたけど、熱も出て、弱ってて……ちゃんとした寝床で休ませてやりたいと思ってた」
「さてさて、あばら家に薄い煎餅蒲団じゃ。ちゃんとした寝床というには赤面するが」
「十分だよ。ありがとう」
 怜は微笑んだ。ほかの家に間借りしている連中も、よく眠っていることだろう。昨夜は誰もろくな睡眠をとっていない。疲れきってはいたが、ゆっくりと眠れる状況ではなかったのだ。
 怪我人は傷を抱えて痛みや熱に苦しみ、幼い者は魔物におびえて目が冴える。無傷の者も、周囲の警戒や怪我人の世話で休むどころではない。志鳥も熱に浮かされて寝つけず、うとうととまどろんでは、ぶり返す痛みに覚醒することをくり返した。怜はそれを見守って夜明かしをした。
 邑に入れば安全というわけではないが、どんな邑でも最低限の備えはされてあるものだ。寄り集まる人数が多ければ、それだけで安心感も大きく、しかも夜具を与えられれば、寝ないでいるほうに無理がある。邑の医者にあらためて治療を受け、少し熱が落ち着いた志鳥も、今夜はすんなりと寝入った。
「明日になれば、たぶん回復してる奴も多いな。みんな丈夫が取り柄の連中だから」
「動ける者が増えていれば、邑の皆に芸を見せてやってくれ」
「もちろん。無傷の連中だけでも、色々できる。……婆ちゃん、見えてるのか」
 老婆に目を向けた怜は瞬いて問うた。老婆は盲(めしい)だった。にもかかわらず、頭をもたげた彼女の視線は、あやまたず志鳥に向けられているように見える。
 何も見えやせぬ、と老婆は、針を動かしながら軽く笑う。
「盲も年季が入ると、慣れと勘が侮れぬものでな」
「そういうものかな」
 怜は老婆の手元に目を凝らした。老婆は刺繍をしている。緻密な紋様を縫いとっているのは、片手の指をそろえたほどの幅の帯で、藍染めの糸で刺繍をほどこし神の加護を願う。針の動きは滑らかで迷いがない。慣れと勘でどこまで縫えるものなのかと、怜はしばらく眺めていたが、遠目はきいても夜目はきかない。あきらめて、また志鳥を見下ろした。
「……その娘は」
 老婆がゆっくりと口を開く。さして饒舌とも見えないが、静寂に飽いたのか、それとも怜への気遣いかもしれなかった。
「この先辛かろうな」
「…………」
 膝にあごをのせたまま、怜は手を伸べる。この二日で急激にやつれた志鳥の頬をなでた。
 少女の両目を覆う、白い包帯。これが外れるのはいつになるのか、外れた先はどうなるのか。
 穏やかな寝顔に浮いた汗を、服の袖口でぬぐってやる。老婆はまたゆっくりと頭を下げて、静かに針を動かした。外は凪いでいるのか風音もなく、怜は黙って志鳥の寝息を聞いた。自身も疲れているはずだったが、夕方にほんの少しうたた寝をしたせいなのか、眠気は全く感じなかった。
 影が時折震えるように揺れる。
 怜はふと気づいて、すぐ横にある灯台に口を近づけ、明かりを吹き消した。老婆は盲なのだから、明かりは怜と志鳥のためのものだ。志鳥はとうに寝入り、怜も何をするわけでもなく、火を灯しておく必要はない。部屋は一瞬で闇に沈んだ。
 火の気配も消えて、無音。静寂に籠められて夜は暗い。
 怜は黙って耳をすませた。目は志鳥に向けてはいるが、何も見えない。肌を舐めるような闇の中、灯台の油の匂いが鼻先を流れている。開いていても意味のない目を閉じると、一層耳の感覚が澄んだ。志鳥の気配にまぎれて、針が布地をすくう音、少女の寝息に似ている。聞き入っていると、ふとその音が途絶えて、怜は目を開けた。
「火を消しておいて、寝ないのか」
 老婆の声は闇の中にあって一層鮮明だ。
「蒲団はこれきりだが、毛布ならばその隅に一枚、おいておろう」
「うん……どうしようかな」
 習慣に従って声のする方を見はしたが、そのあたりの闇のどの深さに老婆がいるのかも判然としない。怜はまた目を閉じた。「――眠くないんだ」
「今宵はあまり、夜を過ごさぬことだ。旅の疲れもあろう」
「婆ちゃんは寝ないのか。蒲団、取ってしまって悪いけど、毛布使っていいから」
 家の夫婦は、まだ幼子の息子を抱えて、それこそ日の入りとともに奥の閨(ねや)へ引っ込んでしまった。それと前後して明かりが消える家も他にあったから、この邑はなべてそういう習慣であるのかもしれなかった。ご自由にという夫婦の言葉と、寝着にも着替えない老婆の様子に、深く考えず今まで起きていたが、もし気を遣わせているのならあまりに申し訳がなかった。
 老婆がまたゆっくり、針を動かす気配がする。
「さて――寝ようか、寝まいか」
「寝ないの」
「年寄りのことで、昼の内もろくに働かぬのでな。たまに一晩、起きていたとて」
「――こらこら、婆ちゃん」
 老婆がくつくつと笑い、怜も笑った。志鳥の寝息がわずかに乱れたが、眠りは深いのか、目覚める風はなかった。
 怜はまだ横になる気がしない。明かりを消しても眠くなるどころか、夜闇に一層目が冴える思いだった。一度まどろんだせいばかりではない、これが尋常でないことには、怜もとうに気づいていた。静かに細く、息を吐いて、周囲の闇を見回す。やはり何も見えなかったが、背後をふり向いて動きを止めた。無明の中にも目が慣れてきたのか、それともそこに窓があるのを知っているせいか、そこの闇だけなんとなく気を惹かれる。
 怜はそこをぼんやりと眺めて、婆ちゃん、とつぶやいた。
「……少し、出てきてもいいかな」
「外へか」
「うん」
 年に合わず反応の良い老婆の返答が、わずかに遅れた。
「……短く済ますのがよい。今夜は良くないでな」
 窓の闇から目を離し、老婆の気配を見る。
「何かあるのか」
「朔(さく)の夜だ。気をつけねば呑まれよう」
「呑まれる?」
 怜はすっと一度、息を吸った。「――魔物に?」
 怜の故意に答えを外したのを見透かして、老婆はわずかに笑った。怜もほんの少し苦笑して、目を伏せる。
「……朔だと、何か違うの」
「もちろんだ。朔には月がない、闇が深くなる」
「望月を見すぎると心に良くないっていうのは、聞いたことがあるけど」
 望の頃の夜に魔物が騒ぐのはよく知られた事実であるし、召喚術に長けた者に言わせれば、魔力もやはり月が満ちるほどに高まるものらしい。強い月光はそれほど生ける者に影響を及ぼすのだと、教えられたことはある。
 老婆が頷いたのか、衣擦れの音が響く。
「過ぎた月明りは人を惑わす。さりとて、闇も人に寛容ではない。同じことだ」
「望は駄目、朔も駄目か。けっこう面倒なんだな」
「そも人は、夜の生き物ではない」
 しゅるり、布を縫う気配が玉留めをしているらしいそれに変わる。
「月にも闇にも敵うまいよ。独りでは尚更じゃ」
 老婆が糸を噛み切る音を聞きながら、怜はまた窓を見た。邑はしんと闇に沈んでいる。
「……陽のない間は眠るんだな、この邑は」
「闇夜には特に気を遣う。陽が射さねば気も沈みがちになる、寝てしまうほうがよい」
「婆ちゃんは起きていていいのか」
「盲に明暗の意味あるわけがなかろう。そこは気の持ちようだ」
「ふうん……? 屁理屈のようにも、聞こえるけどな」
 老婆はまたくつくつと笑い、ここへ、と言う。怜は壁に手をつきながら老婆のそばまで這い寄った。
「これを」
 怜の肩を軽く押さえて自分の居場所を示し、老婆はささやくように言う。
「そなたにやろう。持っておれ」
 衣擦れの音をさせて老婆が差し出したのは、今まで紋様を刺していた護り帯だった。老婆の影もほとんど見えない目に、帯の白だけがぼんやりと輪郭を示す。怜は二尺ほどあるそれを受け取り、軽く頭を下げた。
「ありがとう。大事にする」
「私は先に寝かせてもらおう。毛布は、かまわぬからそこへ置いておれ。外から帰ったら、そなたが冷えておろうからの」
「ごめん。ちょっとだけ出てくる」
 もう一度頭を下げてから立ち上がり、また壁に沿ってそろそろと戸口まで進む。足元に気をつけろ、と背中から声がかかったとき、たしかに足が段差を探り当てた。土間へ下りて自分のものだろう沓(くつ)に足を入れながら、婆ちゃん、とつぶやく。
「その目には何が見えてる?」
「盲は盲じゃ。何も見えやせぬ」
「……正直だね」
 ため息をつき、一度志鳥の気配を振り向いてから、戸口に手をかける。
「おやすみ、婆ちゃん」
「早くにお戻り」
「ありがとう」
 がたがた、音を立てて建てつけの悪い戸板を滑らせる。一歩外へ出て後ろ手に戸を閉めると、目の前にはやはり屋内より一層なめらかな闇が広がっていた。怜は前へ歩こうとしてわずかに迷い、家壁に沿って進んだ。空には星もなかった。
 どこも闇だ。景色の違いはほとんど見えない。
 場所を変える意味もないのだが、それでもなんとなく家の裏手へ回って、少し考えてからそこに腰を下ろした。明かりも星もなしでは、家壁を離れたが最後戻ってこられる自信はない。怜も夜明けまで外で過ごすつもりはなかった。さすがに肌寒い夜気に、自分の体を抱えるようにしながら、怜はぼんやりと目の前を眺める。
 これが闇。
 気のせいかどうか、狭い家で闇は浅い。同じ黒のようでも、壁や天井の気配が見える。たとえ目を閉じていても、同じことだった。怜は一つ、二つ、呼吸をして、ゆっくりと瞼を下ろした。滑らかに深く、柔らかく、視界が闇に閉じられる。
 志鳥はこれからこの中で生きていく。
 背中の家壁に、すやすやと眠る少女を思って、怜は目を閉じたまま唇を噛んだ。兄妹同然に育ってきた少女。志鳥は永遠に光を得ない。怜が夜に見る闇と、志鳥がこれから住む闇と、同じに考えていいのかは分からないが、それでも瞼の裏の暗闇に、志鳥のこれから先を思う。苦労は多いだろう、想像もつかぬほど。どのように生きていくのか、考えると頭の奥が痛んで、怜は目を開けた。喪失感が胸に重い。
 目が冴える。話し相手もなくなって、悪い考えは一層深くへ染みていく。眠気の訪れるわけがない。
 怜は頭を下げて手の中の帯を見た。手に巻きつけて握りこみ、膝を抱える。老婆の言った意味はよく、分かっている。暗い所では気持ちが後ろ向きになりがちだ。自分の闇に転がり落ちてそのまま呑まれてしまいかねない。分かっていながらものこのこと、夜闇を確かめに外へ出ずにいられない自分に、苦く笑いをこぼした。帯の端は老婆の体温が移って、まだほんのわずか温もりがある。額に押し当て、きつく目を閉じた。
 外に出たことをようやく後悔した。今は何も考えないでいるほうがいい、老婆の言うことを信じるなら、朝日が出ればもう少し前向きな思いも生まれてくるだろう。ひとつ息を吐いて、立ち上がる。少女の気配が恋しかった。わずかに夜風が揺れて、空へ上っていく。  黒く塗りこめたような、暗い空を見上げて、あの老婆ならあそこに何を見るだろうかと思う。ぼんやりと立ち尽くして広い闇を仰ぎ、しばらく眺めて、やがて家壁を辿って歩き出す。気の持ちようだと言い切る覚悟があれば、あちらが東だろう、と闇の奥へ最後に視線を投げる。陽の気配を感じながら、ゆっくりと戸を開いた。

2010年、三年の春。制作に関わった最後の部誌に載せたもの。
ファンタジーは気恥ずかしくて載せたことなかったんだけど、どうせもう引退だと開き直ってやらかした。
長編であれこれ妄想していた設定を元にしたやっつけ小説でしたが、結局これが一番素直に面白いんだろうな(笑)
婆ちゃんが楽しすぎてうきうきしていた。やりたい放題だ。
隠れテーマは「赤面もののドファンタジー設定を大真面目に書いてやろうじゃないか」。←
盲目の方なんて知り合いにも居ないので、こんな好き勝手書いていいのかという思いもありつつ。

手直ししたい、と今のところ思ってる。実現するかは不明。

2011.9.12