無題

 こんな夢を見た。
 前へ踏み出して、一歩、二歩、足を出す感触が伴はぬ。不審に思つてひょいと視線を落とすと、己はまつたく中空であつた。ふりむいてみると体は三歩の向かうでそのまま突つ立つてゐる。
 おや、と首を――傾げたつもりになつて――体までとつてかへして、中へ入り、しかしどうにもそぐはぬような心持ちがする。足を出してみると、やはり意識体とでも云ふべき中身ばかりするりと前へ出てしまつた。これは全体どういふことであらうと思ひながらまた体へ戻り、出てみたり入つてみたり、どうあつても上手くゆかず、さうしたことを百六度くりかへした。今まで己の体をどのやうにやつて意のままにしてゐたのやら、とんと思ひ出せぬ。百七度目になつてやうやく、どうやらこれは疲れるばかりでちつとも益はなさそうだと思ひ当たつたが、それでもつい惰性に従つて、百八度目も体をすり抜けた。そうしてやつとそこへ停まって、さて腰を下ろさうかと考へる。よくよく考へると今の己に疲れる体のあらうはずもなし、ひいては下ろす腰とて持ち合はせがない。そこでただその場にふわふわと居るつもりになつて、つくねんと動き方を忘れてゐる己の体を眺める。どうにも奇妙な光景である。眼はぼんやりと開いたままどこを見てゐるとも知れず、死んだ風ではないのだが、およそ生きてゐるとも思はれぬ。
 なるほど中身を失つた身体とはかういふものであらう、とそこまで考へると、中身とは何ものであるのかといふ疑問がふいと浮いた。魂と云ふのか、意識と云ふのか、ひとまづ体は、ああしてそこに立つてゐるあれであらう。最前と変はらずそこでぼんやりしてゐる。肉やら草やら取り込んでは育つて意識の命ずるまま動くあれのことだ。あればかりでは到底人とは云へぬと思ふからには、中身といふのは、人が人たるにずいぶん重大なものだ。
 中身とはなんぞや。今の場合、まさに己そのもののことであるはずなのだが。
 己の姿があるべきところをあらためて見下ろしたが、やはり中空である。魂だの意識だのに実体は確かにないのであらうから、致し方のないことだ。所在なくなつた視線をしかたなくそこの体へ持つていきかけ、そこで己の間違いに気づいた。視線といふもののあるはずがない。眼はあそこに附(つ)いてゐるのがさうで、今は己と一所(ひとつところ)にはないのである。
 さう思ふと、一切の映像が見えなくなつた。といふよりも、そもそも見えてゐたといふのが気のせいであつたやうに思はれる。体一つでは動けぬが、意識一つでも何かと足りるまい。耳も鼻も――もとより何を感じていたわけでもないが、感覚がないといふ明確な自覚を生じてゐた。肌身がないから触れて感じるものもない。感覚といふ感覚がすべて空(くう)になつて、さてこれこそ己、意識そのものであらう。
 では、意識とはなんぞや。これがいつこうに解らぬ。つれづれと考へてしばらく、証左もないが十日ばかり、それでも答への尾つぽも見えぬ。二十日考へ三十日考へ、嘗てここまで茫洋(ばうやう)とした問ひに向かつたことはないと半ばあきれたやうになりながら、暇にまかせてつくづく考へる。ただこの己といふものを逐一言葉に換へてみれば済みそうなものだが、これがどうして一筋縄にはゆかぬ。考へ考へほとんど無為に幾日、ひとつ閃いたのは百八日を数へたときである。今の己は考へるといふことしかしておらぬ、もしや考へるといふこれが意識の全てではないかと、そこへ思ひ至つた。
 しかし考へるといふのは、体のあれ、脳味噌でするものではなからうか。思ふが早いか思考が途絶えて、意識たる己が本格的に空(くう)になるのを感じながら、結局我が身は無の命ずるままに動いてゐるのであらうかと、それが最後の思念であつた。

2010年、「朔」と同じ部誌に掲載。
夏目漱石の「夢十夜」を元にしたテーマ小説集を企画し、そこに合わせて書いたもの。
一度書いてみたかった旧仮名遣い。変換が面倒くさい。
仮名遣いの確認を顧問に頼んだら他のところまで添削されました(笑)
顧問に手伝ってもらったのは初めてで、指摘の鋭さにやっぱ先生は先生なんだと感服した……。
私の小説には唯一と言っていいかもしれない、オチのある話。こうでなくちゃなぁ。

現代仮名遣いver.はこちら

2011.11.19